2008年6月30日月曜日

Groupe Vocal アメリカ演奏旅行 帰国編

もう六月も末ですね。早いものです。日本では梅雨真っただ中で、みなさんジメジメと闘ってるころだと思います。こちらモンペリエでは、太陽が戻ってきて以来、連日太陽ぎんぎらの真夏日です。気温も32度、34度と続いています。日差しが本当にきついのですが、実際の暑さはどうかと言えば、日陰に入りさえすれば涼しいし、日本のような湿気がない分ましですね。ほとんどの家は冷房を備えてなくて、もちろん私の家も冷房もなければ扇風機もないまま過ごしています。

さてさて、2月のアメリカ演奏旅行の報告もついに今日で最終回です。ちょっと長かったですか?私は写真を撮るのが好きだから、それを見せながら説明を、、、と思ってるとついつい長くなってしまいました。
2月24日の日曜日がフランスに向けて帰る出発の日。デビーは大学教授の旦那さんのアパートが、ここバトンルージュにあってこれから数日滞在するので、ニューオリンズの空港までは着いてこないでここでさようなら。朝早く、ヒルトンホテルのロビーに旦那さんと一緒に、私たちの見送りに来てくれました。
バトン・ルージュからニューオリンズの空港まで直接むかう。二時間半くらいだったかな?空港に到着です。
私たちのリムジンバスを運転してくれたのは、10日間ずっと同じ黒人のおじちゃんでした。



フレンドリーな彼はニューオリンズでこの仕事を始めてもう長く、マイケルジャクソンのために運転をしたこともあると言ってました。彼ともここでお別れ。

こちらはクレモンス。彼女はいつもこうやってスーツケースを引きずってたもんだから、この写真は名付けて「クレモンスと犬」。

日本からみて地球の裏側にあるアメリカのニューオリンズから、同じく反対側のフランスに向かう旅。なんだか不思議な感じがしました。「みんなお疲れ!じゃ、私はここから日本に帰るから!」と、お決まりのジョークもしつつ、飛行機に乗り込みました。

空からはニューオリンズの街が一望できてつかさずパチリ。こうして遠くから見ても、貧しい地域だということがなんとなくわかる。もちろんハリケーンの影響はまだ残ってるけど、大きな国アメリカは大きいだけにいろいろ問題も多いだろうなと感じた10日間でした。私にとって初めてのアメリカ大陸でしたが、これがニューヨークだとか、ロサンジェルス、カリフォルニアといった土地への旅立ったら、全く違う景色、人々を見ていたことでしょう。


行きと同じく、アトランタ空港で乗り換えてパリに向かいました。
パリ到着が朝の6時。幸い帰りは、パリのシャルル・ド・ゴール空港から出ているTGVで直接モンペリエに向かいます。ああ、あの行きのパリ滞在はきつかったもんね。

TGVに乗ってからは、誰からともなく爆睡。若者たちは前日徹夜パーティーをしたと言ってたけど、結局は飛行機でも寝て、TGVでも寝て。まあ疲れてるから当然だよね。
ここからはウラジミールが撮影した写真を紹介します。


人の寝顔を撮るなんて悪趣味だわと思うかもしれませんが、ウラジミールにしてみたら、みんながとてもかわいく見えたのでしょう。

みんな寝てる。


行きのTGVでは、修学旅行張りの大騒ぎだったけど、帰りは誰もしゃべらない。


みんなぐっすり夢の中。



サビンヌだって責務から解放されて熟睡。



みんなこのままの状態で、モンペリエまで眠りまくりでした。


犬もそうだけど、やっぱり人も寝ているときはあどけない顔をしてるもんなんですね。この写真をもって、Groupe Vocal アメリカ演奏旅行の報告はおしまいです。おつきあいしていただいてありがとうございました。
さて、私も爆睡していたのには変わりはないんですが、この日が旅の終わりでもあると同時に、私にとったら新しい経験へのデビューの日でもあったんです。
私たちがモンペリエに到着したのは2月25日の午後一時。モンペリエではここから一週間、まだ冬休みバカンスが残っていたので、音楽学校もないし一週間の休養と思っていたのだけど、実はアメリカへ出発する3日前に、モンペリエのオペラ座から助っ人にきてくれないかと、仕事の依頼を受けたのでした。しかも本来なら23日あたりから仕事に行かねばならないところ、私の帰国を待ってくれるという代わりに、「月曜日の20時に来てもらえるかな~?」とのことだったんです。そう、つまりこのTGV爆睡の数時間後には、仕事に行く予定になってたんです。しかもはじめての仕事で、知らない人たちとの仕事! そのために私の頭は、帰りの飛行機の中から切り替えが始まっていて、もう次の仕事へと続いていくのでした。この仕事の話も報告せずにはいられないので、近々お伝えしたいと思います。
話を今日の日付に戻して、6月末の私はというと、一昨日の土曜日午前中に、音楽学校のピアノの生徒の試験をし、今年度の全スケジュールを終了。晴れてバカンスとなったのです。オペラjrの方はまだもう少し仕事が続きますが、明日の月曜日から日曜日まで一週間のお休みがあります。(て、もう夜中まわって今月曜日です。。)そこで、前にもお話ししたように、私はイタリアでの内輪ミニ同窓会に向けて出発します。そのためさっきまでどたばたと荷造りをしてました。いつものように前日にならないと準備しないもんですから。。。さっきふと気がついてよかったけど、陸続きの隣り合わせの国に行くのって、なんだかパスポートのことを忘れがち。必ず持っていかないとだめですね。なんせヨーロッパ人ではなく日本人ですからね。
私の頭の中で勝手に北イタリアはモンペリエよりは涼しいと思い込んでいたのですが、それは甘かった。どうやらイタリア半島の内陸部は盆地のような感じで、それはそれはたいそう暑いそうです。暑いところに行くのか。。。とちょっと予定が狂いましたが、それでもやっぱり楽しみ。またの報告をお楽しみに。それでは行ってきます。

2008年6月27日金曜日

滞在許可証更新時期せまる 2

今週の月曜日、私は給料所得者身分での滞在許可の更新について問い合わせに行ってきました。向ったのは、労働省の地方部局といった感じのお役所。滞在許可はそれぞれの県庁から発行されるので、県庁に問い合わせに行くのがもっともなところなんですが、県庁に行かなかった理由があります。まず、県庁の外国人サービスで質問を一つするためだけでも、早朝から長蛇の列に並び、ひたすら待つしかないということ。「外国人」ということでいっしょくたにされてるので、それぞれの人がどんな用件で来てるのかという選別なしで、みんなで一つの列を作るため、もちろん人の多いこと多いこと。そして、言ったらわるいけど、無理難題をもって押しかけてる人も多いので、時間がかかるかかる、、、。私は去年、この列に並ぶことを数回経験済みなので、極力避けるべきだということを学びました。それから、この列に並んで待たされた挙句に、対応にあたる県庁の人の適当な態度があまり信用できないからです。というのも、まず、人によって言うことが違う。これはフランスに住んでる人なら誰でも知っているお決まりパターンですね。それから、働く外国人の管理は、結局のところ労働省の管轄になるわけで、県庁に申請書類を提出したとしても、労働するための身分である給料取得者(サラリエ)の滞在許可証は、結局そのあと私が問い合わせにいった役所に送られて、そこで審査されるんです。

去年の私はまず、県庁から問い合わせに行きました。私の質問は、「もうすぐ滞在許可が切れるのだけど、身分変更にトライしたい。けれどリスクが大きいということは知ってるから、もしだめだったときに、学生としての身分をまた得ることができるのか?」ということでした。そしたら思いがけずにフレンドリーな対応を受けたばかりか、「まずはすぐにでも身分変更の届けをしてください。もしもだめだったら、大学にすぐ登録して、学生の身分で申請すればいいでしょう。」と、とても簡単に言うのです。しかも身分変更申請の提出書類として、パスポート、住所証明、契約書だけで良いと言ったのでした。

私がそれまでにいろいろ調べた結果では、「一度身分変更にトライしたものは、却下された場合でも、もう学生でいる必要がないから身分変更を行ったわけで、学生の身分はもう二度と認められない。」と厳しいことが言われてました。なのに、このあっけなく楽天的なアドバイス。なんかふに落ちませんでした。しかも「あなたの雇い主がきちんとした組織で、合法的な活動をしていて、あなたに適切な賃金を払っていたら、受理されるはずですよ。」とニッコリ笑顔までしてくれるんです。話に聞いてたのとあまりに違う。。。しかも厳しい審査が、たったこれだけの書類で行われるとは信じ難く、用心深い私は不審に思ったわけです。県庁とか、フランスの役所の人はみんな不機嫌で態度が悪いと有名ですが、私への対応はまったくの逆でした。それはそれで気分のいいことだったけれど、私の滞在許可の話はとても大事。だからこの時、県庁を出た足でそのまま、それまでも学生としての労働許可の申請をいつも行っていたこの労働省管轄の役所に向かったのでした。

この役所の中でも、尋ねるのは外国人労働者を担当している事務所。ここにはいつも怖いマダムがいます。単に愛想がないなんてレベルではなく、本当に氷のような冷たい空気が漂った彼女の部屋。フランスで仕事をするようになってから、毎回このマダムに労働許可を発行してもらってきたので、彼女がどんな態度を見せるかは予想で来てました。

まず私が学生からの身分変更をしたいという旨を伝えると、出たー!必要書類のリスト!このマダムが「これとこれとこれとこれと、、、、、」とチェックを入れていく。県庁のうそつきー!やっぱりいろいろな書類が必要じゃんか。ざっと目を通しただけでも専門用語すぎて、私にはすぐには理解できない書類がずらり。そこへ彼女が言う。「毎月の給料が最低1350ユーロないとだめよ。」と。そこで私はつかさず、二つの仕事場、雇い主がいるのだけど、両方を足した額でいいのかと確認。そしたら「いいわよ。」と一言。続いて私もひるまずに、「いろいろと厳しいって話ばかり聞いてきたけど、実際のところ審査基準はなんなんですか?」と聞いてみた。すると「とにかく給料が最低でも1350ユーロはないとだめよ。そして必要書類がそろわないとだめよ。」という。改めてざっと必要書類のリストを見ると、「雇い主が、この外国人が務めるポストを公募したと証明する書類」というのが目に入りました。これです、これです。3年前に問い合わせした時に、この書類はできないと音楽学校に言われたことがありました。だって、私は口コミ人伝えで仕事の話が来て、試用期間に雇ってもらったのでした。だから公募なんて音楽学校はしてないんです。それはオペラjrも同じこと。だから私はこのマダムに聞きました。「この書類は絶対必要ですか?」。するとマダムはさらに冷たく、「そりゃそうよ。第一、フランス人で仕事を探している人はいっぱいいるわけで、外国人が仕事をする理由はまずないのだから」といったようなニュアンスのことを言ってきました。 お~、冷たいわー。
つまり、このマダムにとって、もちろん人権の観点から言って、外国人労働者の権利を守ることも大事だけど、同時にフランス国民の失業者、高まる一方の失業率への対応も大事な仕事なわけです。と言われたらそりゃそうですね。外国人に手厚くサービスする前に、自分たちの国民のことを考えなくてはいけません。まあ、この冷たいマダムから引き出せる情報はこれで最大だなと思った私は、おとなしく帰って、今度は自分の雇い主との話し合いに向かったわけでした。

それにしても県庁の言う通りに契約書だけ出していても、結局は書類不備でやりなおしになっていたところだったわけです。なんてこった。やりなおしになって、また待たされて。。。って。やはりいろんな意味であなどれないフランスのお役所。おそるべし。

とまあ、去年がこういった流れがだったので、今年は最初からこのマダムの事務所に向かったのでした。今回の冷たいマダムは部屋の中にいるくせに、私がノックをしても返事をしてくれず、これが幸いして、横の部屋のマダムが対応にあたってくれました。私が去年、学生からの身分変更をしたことや、去年書類を出した雇い主などの情報は全部パソコンに登録されていました。このマダムは「同じ雇い主ですか?」というから、私が「はい、そうです。」と答えると、「それじゃあ、この去年CDD(期限付き契約)だったの雇い主のところで、今度はCDI(期限なし契約)を出してください。それから、ここ3か月分の給料明細を出してください。」と言いました。私は音楽学校とは、すでに3年前からCDI(期限なし、つまり終身正式契約)を交わしています。でもオペラjrとは、いつもスケジュールにそって、CDD(期限付き短期間契約)を更新してきてるもんですから、CDIではないわけです。もちろん私としては先日の記事にも書いたように、CDIに変えてもらえないかとウラジミールにも頼んでいたところですが、まだCDIにしてくれるという返事も保障もありません。なのにこのマダムはCDIを出せと言ってきた!これはまた大変です。だから私は自分の状況を説明して、CDIを出せなかったらもうだめなのかと聞きました。そしたらこのマダムは、「普通はCDDが切れた後にさらに同じところで働くということは、CDIに切り替わって続けるということですよ。CDDを何度も何度も更新していくということは普通はできません。」と説明してくれました。なので私はオペラjr側の言い分による説明をしてみました。舞台や映画などの分野に限って、CDDの更新が認められているのです。ただ、詳しい条件までは私も知りません。事情がどうであれ、このマダムによれば、CDDの更新をずっとしていくということは、好ましくないとのことでした。「だからあなたから雇い主にCDIにしてくれと頼まないとだめですよ。もし今後もCDDだというのなら、その理由が契約の中に明記されていて、それが受けいれられないとだめです。」というのです。しかも「CDIだったら、三か月分の給料明細さえあれば、普通は一か月くらいで更新ができるはずです。」とまで言ってくれました。

こうなったらオペラjrとの交渉しかありません。だって、私がまたCDDを出したら、それが受けいられるか結果を心配してはらはらどきどきの時間を過ごさなくてはいけないわけです。しかも保証はない。これでは去年と同じ状態になってしまう。
家に帰った私は、オペラjrのディレクターであるウラジミール、そして事務方のトップであるシルヴィーの二人あてにメールを書く準備を始めました。ウラジミールにはこれまでにすでに二回話してあったことです。しかもその二回目というのは、ヴァレリーが強い口調で「leonardoにとったらすごく大事なことなんだから、考えないとだめよ!そもそもCDDの更新でずっとは続けられないはずよ!」と言ってくれたのでした。ヴァレリーの口調があまりに強かったことと、唐突だったことから、ウラジミールもびっくりして、二人の間に緊張感が走りました。私ですら、「ちょっとそれは言い方がまずいんじゃない??」と思うほどで、冷汗をかくかと思ったほどです。でもまあ、ヴァレリーが私の後押しを表明してくれたのは明らかだったし、これでウラジミールも「きちんと話し合うから。」と公言したことになったわけです。

このことがあってからの、私からの改まったメール。ぬかりがあってはいけないから、私も友人にチェックをしてもらい作成。この日に役所で言われたこと、あなたたちと働きだしてもうすぐで5年がたつということ、そして滞在許可の問題は私にとってとても大事だということ。実は給料アップの交渉だとかも一緒に言いだそうかと思ってたのですが、それは友人に止められまして、今回はCDIの問題に絞ることに。まあ日本人だったら、雇われてる身分でよくも自分からいろいろと要求するな~と驚かれるかもしれませんが、これもフランス生活5年間で学んだことの基本中の基本 : 「黙っていては何もおきない。黙っている=何も問題がない」を実行したに過ぎません。もちろん私だっていろいろと心配はしました。「調子に乗るな!とか思われて首になったりして、、、」とかね。でも、結局は滞在許可のことで心配ばかりする日々はもうごめんだと思うようになってたってことです。それにここ数年の私の仕事を評価してくれているだろうと期待して。これを月曜日の夜に送信しました。

それから火曜日、水曜日と音沙汰がないもんだから、「やっぱりだめだったか~。次の対策?!」とか考え始めたところ、昨日、木曜日の午後にウラジミールから電話が入りました。「CDIにするから。」と。「ほんとう~~?!うわ~い!めるしー!めるしー!本当に!」と大喜びの私でした。

とまあ、長くなりましたが、このうれしい知らせをみなさんにしたかったんです。モンペリエでも私の周りの人は、みんな自分のことのように喜んでくれました。「10年カードがもうすぐだ!」とまで大喜びしてくれる人もいて、「おいおい、それはちょっと気が早すぎるぞ。。。」とブレーキをかけつつ、でもみんな喜んでくれてよかった。これで来年度の滞在許可を得るための大きな第一歩ができました。これから実際にCDIを交わして、書類をそろえて、7月中には申請をしたいなと思ってます。ああー、CDDとCDIでは大きく違います。leonardoの人生すごろく、大きくコマを進めました。

2008年6月26日木曜日

滞在許可証更新時期せまる

フランスに3か月以上滞在するすべての外国人は、入国の際にビザが必要です。ビザはそれぞれの国の大使館で発行されるもので、フランス入国後はこのビザをもとに、現地の役所で滞在許可証を発行してもらわなくてはいけません。

フランスは移民大国ですが、そのために発生する問題は後をたたず、移民、外国人の管理が厳しくなった話は日本でもニュースで流れたそうだから、耳にした人は多いのではないでしょうか。

滞在許可証には、その人の身分によっていろいろと種類があります。学生、給料所得者、芸術家、研究者、商売をする人、そして元フランス領土だった国の人々には「家族呼び寄せ」などが適用されます。これらの許可証は基本的にすべて1年もので、一年たったら更新手続きをすることになるのです。今のところフランスにはアメリカでいう永住ビザのようなものは存在しなくて、一番長いもので10年カード。以前はフランス人と結婚した人、フランスで合法的に働いている人には、この10年カードが比較的簡単に発行されていました。それが今はガラッと変わり、フランス人と結婚した人でも、最初の3年間は毎年更新しないといけないし、働いている人なんかは始めの5年間は毎年更新しないといけないことになっています。
その他の一年カードについては、一回目の発行は今までとあまりかわらない審査状況だと思いますが、更新を希望するものに対してのチェックが厳しくなりました。学生としての滞在許可の場合、以前なら語学学校などに登録だけしてればなんとかなっていたのが現実でしたが、今は学校での出席率、そして学業の成果までチェックされますから、それなりに真面目に学業をこなしていなくてはいけません。そして今まではたくさんいたであろう、学生10年目とか、博士課程7年目とか、長期間学生身分でフランスに滞在している人に関しては、その学歴の一貫性が問われたり、厳しいチェックが入るようになるといいます。「家族呼び寄せ」の場合も、厳しい審査基準ができ、もし幸い受け入れられたとしても、フランス語とフランス文化の習得が義務付けられました。
私は日本人的に「郷に入ったら郷に従え」という考えが強いので、フランスに住むならば土地の言葉、風習を尊重してあたりまえだと思ってましたが、世界中からやってくる人々の中には、そんなのおかまいなしの人がたくさんいるのも事実です。ただ、この問題は植民地の時代からはじまる問題だから、原因から解決策まで話出せば長くて複雑な問題。「やっぱり歴史は重い」につきますね。
それに、受け入れが厳しくなったとは言っても、要はそれだけフランスで生活することを望む外国人が多いということ。理由は人それぞれにしたって、それだけ多くの外国人を惹きつけるフランスという国はやっぱりすごいと思うし、それだけ開かれているんでしょう。日本だったら、日本に憧れる外国人は増えてきたとしても、実際に日本まで来て、さらにここで生活をしていきたい!と思う外国人はまだまだ少ないし、外国人の入国規制はとても厳しいものだと思います。

私がフランス、モンペリエにやってきたのは2002年秋のこと。日本の大阪フランス総領事館で発行してもらった学生ビザでやってきました。モンペリエの大学の4年生(Maîtrise)に登録する予定できたので、学校の受け入れさえ決まれば、たとえ時間がかかって待たされたとしても、一応問題なく滞在許可証を発行してもらえました。その後、二年目は大学の5年生にあたるDEAに登録しなおすことになって、その年度末には無事論文を提出して当初の目的を果たしました。働き始めたおかげで経済的になんとかなったので、フランス残留、3年目にトライすることを決め、当時登録していたコンセルバトワールの学生身分から、滞在許可を発行してもらいました。4年目は大学の博士課程に進む決意をして、学生の滞在許可を更新してもらいました。とまあ、ここまではよかったんですが、問題となったのが5年目に当たる去年です。

私がフランスに来た最初からお世話になっていた指導教授のM先生が、予定よりも早く引退することを決められました。「leonardoには早めに伝えたかった」とうちらけられた私は、急遽、次の指導教授を探さなくてはいけなったわけです。博士論文の指導教授は、やっぱり研究テーマによってきちんと選ぶべき大事なこと。しかも受け入れてもらわなくてはいけません。M先生とも相談した結果、他大学の先生でふさわしい人にお願いしようということになりました。
これは私にとっても一大事。他大学ということは、他の街です。その場合、はたして私はモンペリエを離れて他の街へ引っ越しをするのか?答えはノーです。だって、モンペリエでしている仕事のおかげで生活がなんとかできてるのですから、モンペリエを離れる=仕事がなくなる=生活ができない、です。ならばモンペリエに残って生活を続けながら、他の街へ通うのか?う~ん、大きな疑問です。まず時間の問題。そして交通費だってタダじゃない。こうなると、大きな選択をするなら今だなと感じました。ただ優先順位をつけるぐらいでは片付かないような大事な選択。つまり、フランスで博士号をとるのか、今ある仕事を続け、さらに発展させる可能性にかけるかのどちらかを選ばないとだめだなと感じました。というのも、もちろんこの二つのことを両立できたらそれが理想ではあるけれど、フランスに来た二年目から始めた仕事が思った以上に調子よく、この先続けていくには、外国人学生として制限された労働の権利が大きなネックになってきていたのです。詳しく言えば、外国人学生はハーフタイムまでの労働時間に制限されていたのです。もちろんそれすらも、労働許可証をとるとかいろいろと面倒なことがありました。仕事が順調になってくると、このハーフタイム以下におさえることが難しくなってきたのです。つまり、学生身分を保つために、せっかく声をかけてもらった仕事を断るのか、仕事をやっていきたいのか、のどちらかを選ばなくてはいけなくなったんです。 私だって仕事の厳しい現実はわかってます。来る話を断りつつ、自分に都合のいい時間だけキープしたいなんて甘い話はうまくいくわけありません。

この大きな問題を、すでに2004年度あたりからは漠然と考えるようにはなってきてたものの、学生という身分から、自由に働ける労働ビザへの変更は難しいという話のせいで、リスクを避けていたのも事実です。しかし、M先生の引退決意の報告を受けて、この問題と向かい合わなくてはいけなくなりました。だって、また一から新しい先生と出会って研究をするにしても、博士論文執筆には莫大な労力と時間、そして資金も必要です。さらに純粋に研究のためだけだなく、フランス語がやっぱり大きなネックなのは違いありません。当時の私の仕事の量から言って、博士論文と仕事を両立するというのは、理性的に考えて無理でした。そのため、悩みに悩み、迷いに迷った末、実はリヨン大学の先生に受け入れてもらえるというところまでなんとか進めていたにも関わらず、私は労働ビザへの身分変更にチャンスをかけることにしたのです。

リスクをとるとは決心したものの、リスクは大きかったです。なんせ、ここ数年、外国人のコントロールが厳しくなってきた一連の動きを起こした張本人、ニコラ・サルコジ氏が大統領に選ばれたんですから。当時彼は、「imigration choisie」と言って、外国人を審査、選別して受け入れOKか否かを決めるスタンスを示しました。そこでいろいろな条件があげられることになったんです。そこで、フランスに多数いる外国人の間では、口コミ情報、噂、さらにはデマまで飛び交い、たくさんの人が自分の滞在許可が取れるのか、更新できるのか、不安になったものです。とくに、「却下された場合には15日以内にフランスの国外に退去する命令が通知される。」という文面のインパクトは強かったですね。働く身分の人は、管理職で、しかも月給3000ユーロ以上じゃないとだめだとかまで聞きました。この噂には、「フランス人だって、3000ユーロ以上稼いでる人なんて数が知れてる!」とみんなが言ってました。それでも当事者の私としては、噂に翻弄され、ほとんどだめなんだと覚悟しての申請となりました。

労働許可を申請するには、雇い主の書類が必要です。その会社、団体についての公的な書類の数々、そして一番大事なのは私との契約内容。そして「なぜ、外国人であるこの人物を雇う必要があるのか」という理由を説明する文書。雇い主にとってもめんどくさいことだから、私はおそるおそる頼んでみました。そしてら、音楽学校も、オペラjrも、双方「準備するよ!まかせて!leonardoが残れるようにしなくっちゃ!」と、私の申請をサポートしてくれると言ってくれました。このとき、小さい輪ながらも、仕事仲間から、友達から、お世話になってる人など、モンペリエで私を取り巻く人々の間にleonardoサポーター行動が起きました。私はこれで感無量になり、それまでリスクのこと、つまり国外退去命令のことばかり頭にのしかかってましたが、みんなの援護を受けて、「これでだめだったら縁がなかったってことだ。」と思えるようになりました。

去年の私は夏の間中この問題を考え、悩み、結局結論を出したのは9月頭だったんです。そこからあわてて書類をそろえて提出したために、すぐに返事がくるわけもなく、昨年度の滞在許可証は9月24日で予定通り切れてしまい、そこからの私は「sans papier」、 つまり、身分を証明する書類をもっていないという危うく、弱い立場の外国人となってしまいました。 「違法滞在」と言われえる立場。。。 県庁でそのことを説明して、「せめて何か一筆、私が身分変更申請中だとか証明してくれませんか?」と頼んでも、「まあ、大丈夫ですよ。」って言う。まあ、大丈夫って、もしものときのことを言ってるのに、なんててきとうなことを言うんだ~。。。
しかし意外なことに、フランスの役所にしては異例の早さで取り扱ってくれたのか、10月末に県庁からの呼び出し状が届きました。「滞在許可証ができたから県庁にとりに来るように。」と。今度は呼び出し状がある人専用の、番号札付きの窓口で並びました。自分の番になって窓口に行くと、マダムは「はい、サインして。」と言ってから、「Voila~!フランス全土でOKよ。」とフレンドリーにカードを差し出してくれた。そう、そこには「サラリエ(給料所得者)」と記されていて、しかも「フランス本土全土で有効」とまで。雇い主の名が記されてそこだけ限定とか、地名や地方名が書かれていてそこだけに限定とかいう場合もあると聞いていたので、「フランス全土でどんな仕事をしてもいい労働許可証」をゲットできて予想外。私が望んでいたもの以上のような、100パーセントの滞在許可証を頂きました。

ああ、今思い出してもあの数ヶ月間は本当に頭の中と心の中がぎゅうぎゅうでした~。

なぜこの話題を今、私が書くのかというと、本来、滞在許可証の更新のための手続きは、期限が切れる二か月前に始めないといけないといわれています。そのため、来年度の滞在許可をゲットするには、今、動きださなくてはいけないんです。だから夏のバカンスは楽しいと同時に、9月からの自分の滞在身分が確保できるのかできないのかと心配する、気が気でない時期。

というわけで、私は来年度の滞在身分を得るために動きだしました。実はここまでは本題に入る前置きだったんです(いつも長くてすみません:笑)いつもの長いコメントを避けるためにも、今日はここらへんでおやすみします。また続きを読んでください。

2008年6月24日火曜日

Groupe Vocal アメリカ演奏旅行 9

ニューりオリンズ滞在も終えて、2月23日土曜日は最終目的地のバトン・ルージュへ移動。ルイジアナ州と言えばニューオリンズが一番の大都市ではあるけれど、ここバトン・ルージュがルイジアナ州の州都なんです。
誰がスポンサーだったのか聞かなかったけど、この日はヒルトンホテルでの宿泊をプレゼントされました。今まで予定と違って個室を与えてもらえたけど、ここではサビンヌと同室。


私達はツインルームに二人で普通だけど、若者たちはなんとこの二つのベッドそれぞれに二人ずつ寝るように分配されてました。結局ニューオリンズでもそうだったけど、まだあのホテルではベッドが大きめだったからなんとかなっただろうけど、ヒルトンのこのベッドは普通サイズ。かわいそうにこれでは疲れもとれなくて当たり前だわね。

こちらがグループ最年少のマキシミリアン。彼はニューオリンズで一人はぐれるわ、何かとサビンヌに世話をやかせてたけど、このホテルでもやってしまいました。まずはこの電話。言い出したのは私だけど、ロビーにあるただの飾りだとおもってポーズとってもらってたら、実は実際に使われてて、フロントにつながってしまったんです。



そして彼はエレベーターを使わずに階段を使ったはいいものの、何階にいるのかわからなくなって、手当たり次第に非常用ドアを開けていったら、最後には防犯用アラームを作動させてしまったらしく、一人慌てふためいて逃げてくる彼の姿といったら、マンガみたいでした。

バトンルージュに着いて、ホテルに荷物を置いた後、まずはみんなそろってお昼を食べに行きました。州都なだけあって、ビジネス街の雰囲気もあり、街並み全部が新しく、きれいなところでした。私たちが食べに行ったカフェレストランも、この通り。日本にもありそうな、きれいな店でした。こんな店はフランスんいめったにないし、アメリカに来てからもお目にかかってなかったから、「日本にきたみたい!」と錯覚を覚えました。

この日の午後はコンサートが予定されていました。場所は街の教会。ホテルからも歩いてすぐ。

バトンルージュが唯一、現地の人となんの交流もないままいきなりコンサートだったから、お客さんは全然こないんじゃないかと思っていたら、ニューオリンズでのコンサートよりも多くの人が来てくれました。やっぱりもともとフランス人エリアだった州なだけあって、フランスに熱い思いを寄せている人がいるもんなんですね。大学でフランス語を教えてる人などが中心になって、コンサート後には軽食も用意され、アットホームな交流ができました。

これがツアー最後のコンサートだったことと、温かいもてなしを受けたおかげでみんなとてもいい笑顔。この写真をみてもわかるように、この10日間を通して、Groupe Vocal が本当に仲のいいグループとなってました。


ここの会場では本当のピアノさえ得られずに、私はクラビノーバで弾いたんですが、コンサート後、みんなでクラビノーバを囲んで遊んじゃいました。私はみんなのリクエストに応えていろんな曲を弾いて、「leonardo はジュークボックスだね!」と言ってもらい、ウラジミールはクラシック以外の曲を私が弾くのは初めて見たもんだから、「leonardoはモンペリエの夜のバーで弾いてたのか?」と驚いてました。そうえいば私は小さい頃から、こうやって好きな曲を好きなように弾くのが好きだったな~と思いだしました。
それからポール・アントワーヌとは即興ごっこ。彼はコンセルバトワールで打楽器を専攻していて、歌は歌える、ピアノも弾けるマルチミュージシャンなのだけど、とくに音楽のセンスがからだにしみこんでいるから、私は彼の即興が大好き。ギエームと3人でセッションをして楽しみました。即興って、息があって調子にのってくるとわくわくしちゃいますね。



歌うものあり、踊るものありと、リラックスして楽しんだ私たち。実はこの間、守衛さんがずーっと微笑んで会場を閉めるのを待ってくれてたんですよね。だいぶ時間がたってから、その現状に気がついた私たち。「うわっ!ごめんなさい!」とあやまってあわただしく出てく私たちに、守衛さんはやさしくニッコリと「いいんだよ。こっちこそ楽しませてもらってありがとう。」という。知らない土地の知らない人たちと、いい交流ができて、みんな大満足。

素敵なお昼に続いて、今日は最後の夜ということで、みんなそろってイタリアンレストランに行きました。

ここでは大部屋二つにグループもわかれて着席。私はサビンヌと一緒に、若者グループとテーブルにつきました。ウラジミールもいないもんだから、みんな超リラックス。この旅の大ウケハプニングトップ10などを投票したりして、大盛り上がりでした。

翌日はいよいよフランスへの帰国の日。若者たちは時差ボケに先手を打とうと、徹夜パーティーをホテルの部屋で計画してました。
私とサビンヌはというと、疲れて眠たいのに、明日早朝の朝ごはんはホテルでもどこでも食べれないということで、デビーが買いだしに行ってくれて届けてくれるのを待ってました。それにしてもデビーにお世話になりっぱなしの10日間だったよね。そんなデビーともお別れが近づいてます。


2008年6月23日月曜日

Groupe Vocal アメリカ演奏旅行 8

2月のアメリカ旅行の報告はここらへんでスピードアップしていきたいと思います。

2月22日金曜日はこれまた予定が盛りだくさんの日でした。朝からちびっこ対象のコンサートだったので、きちんと早起き。まあコンディション的にも難しく、そんなにいいできではなかったけど、来てくれた子供や先生は喜んでくれた。「CDは売ってないんですか?」とかまで言われたもんね。

で、11時頃にはホテルに戻り、お昼ごはんをとろうということになりました。会計をまとめるためには、最大でも二手に分かれる程度にまとまっていなくてはいけない。で、ケンタッキーフライドチキンにいくグループと、もう少し野菜とかがある軽食グループとに分かれました。そしたらまた雨。ザーっと激しく降る。私は野菜が恋しかったから、野菜グループに加わっていったのに、結局その店は閉まってた。。。で、私たちもケンタッキーに。フランスにもケンタッキーって進出してきてるけど、グループのメンバーは知らなかった。みんな脂っこそうだとかまずそうだとかケチつけてたけど、まあ仕方ないじゃんね。「私は日本でよく食べてたよー。そんなに悪くないよー。」となだめておいた。

さて、午後の予定は17時にフランス総領事の公邸にいくというもの。だからそれまでは自由時間。それなら最後のチャンスだからと思って、私は街にでることにしました。サビンヌは疲れててホテルで休むというから、グループ最年少のマキシミリアンの監督役を私がすることに。彼は実はまだ14才なんです。Groupe Vocal は16歳からということになっているのだけど、彼は声変わりをしてたことと、小さい時からオペラjrで歌ってる子だということもあって、特別に入会を認められた子。背もぐんぐんのびて、大きくなったと思ってたけど、マキシミリアンはかなりのトラブルメーカー。でも14才となると仕方ないか。彼もアメリカに来てはしゃいじゃってるから、これはしっかり引率してあげないとだめですね。

トラムに向かったら、結局グループの街に出る派がみんなそろってました。


私は昨日のショッピングセンターを最後まで回れなかったからそこに向かうというと、みんなついて来ると言う。「何があるの?」とか聞いてくるけど、私も知らないから様子を見に行きたいんです。。。フレンチクウォーター付近でトラムから降りるとまた大雨。みんなでびしょぬれになりながら、ミシシッピぞいのショッピングセンターに到着。未成年もいることだし、「45分後にここで集合ね!」と約束を決めてみんなそれぞれ分かれる。で、私はマキシミリアンのお供。私たちはゆっくりペースで見て回ってたのだけど、何やら女の子たちがすごい剣幕で、「私たちはもう他のところに行くから!」と走り去っていく。お目当てのものが何もなくて、しょぼいところに来てしまった!と腹を立てたらしい。これを見て私と男の子達はし~ん。。。。。フランセーズの勢いはやっぱりすごいです。。。

確かにこのショッピングセンター広い割にあまりぴんとこなかったけど、それでもおみやげやとかもあったし、GAPもあったから私はGパンとかちょっと見てみた。またも時間が足りなくて買えなかったけどね。
ショッピングセンターからテラスに出ると、雨も止んでミシシッピが一望できました。


このとき、結局私と行動を共にしたのは、マキシミリアンとオリビエとノエ。女の子とたちと違っておだやかなものです。3人とも高層ビルとか見上げてるから、「こんなんで驚いてたら日本に行けないよあんたたち」、とからかいながらパチリ。


三人とも完全なおのぼりさんですね。
総領事公邸に行くための約束は16時でした。大雨でびしょぬれになったことだし、私たちもシャワーを浴びるなどして、身支度を整えました。この総領事行き、聞いていた話によると、なにかのセレモニーの中で、Groupe Vocal がフランス国歌とアメリカ国家を歌う依頼を受けたのだそうです。で、そこにはワシントンのフランス大使もいらっしゃるとか。セレモニーは分刻みでスケジュールが組まれてて、私たちが部屋に入るタイミング、歌うタイミングだとか、シビアな指示がでてたから、何やら政治的で儀礼的な香りがするな~と思ってました。私たちの服装ももちろんしっかりフォーマルでなくてはいけません。みんなコンサートの服装で黒にきめ、普段はGパンのサビンヌも、さすがにこのときは黒できめてきました。



リムジンバスで総領事公邸に向かいます。豪華な住宅地の中で、フランス国旗を掲げてる家を発見。そうですここがフランス総領事公邸。アメリカには複数の総領事がいますが、もともとフランス人が住み着いた土地であるニューオリンズは、フランス文化、フランス語の普及にとって重要な街です。昨年の9月にワシントンに赴任したフランス大使にとって、今回が初めてのニューオリンズ訪問。私たちがたまたま同じ時期に来ていたことから、総領事直々のお願いで、急遽Groupe Vocal が歌うことになったのでした。



私達の到着と同時に、大きな車が玄関前でとまりました。国旗もつけてる車だから、「もしかして?」と思ったらその通り。フランス大使と総領事のご到着でした。



見てみると、中央の年配の人が大使だろうとはすぐわかったけど、となりの人は秘書?って感じでしょう?そしたらこの若い人が総領事本人でした。すぐにデビーがウラジミール、イザベル、そして私を二人に紹介してくれて、挨拶をかわしました。私個人としては、なんだかフランスの国家的なセレモニーの場に、100パーセント日本人の私が紛れ込んでいて、おかしく思わない?と気にしたけど、やっぱり多民族国家のフランスだからこそ、そんなことが気にならないんでしょうね。
「セレモニーが始まるまで、楽にしてください」と総領事さんに言ってもらい、私たちもドリンクとか頂きながらリラックスさせてもらいました。
そしてセレブな香りがする中、みんなで写真とりあいごっこ。こちらはイザベル。


ウォーミングアップもしなくてはいけなかったから、ドアが閉められる部屋に入って準備。そして同時に写真撮影。
セレモニーをスマートにすすめるために、Groupe vocalのメンバーは階段上でスタンバイ。リーダーであるウラジミールを前にパチリ。
セレモニーがはじまると、まず総領事が挨拶のスピーチ。この日招待されていたのは、ニューオリンズの米仏企業の人、フランス語の先生、といった感じで、フランス文化の普及にたずさわる人たちです。中には、ラファイエットでお世話になったアリアンスフランセーズの会長さんと、ミュリエル夫婦も来てました。総領事さんは彼らの活動をねぎらい、お礼をのべ、そして新任のフランス大使を紹介しました。
そして今度は大使のスピーチ。米仏関係の展望、今後の抱負などを述べ、Groupe Vocalを紹介してくれました。
そこでウラジミールもスピーチ。まあ彼も慣れたものです。
この日のセレモニーのメインはなんだったかというと、第二次世界大戦のときに、フランスの民衆をサポートした元兵隊さんに、レジオン・ドヌールという勲章を贈呈するためだったんです。この勲章はフランス共和国から贈られる勲章の中でもとびきりレベルの高い勲章で、現大統領、ニコラ・サルコジの名によって、二人のアメリカ退役軍人に贈呈されました。二人ともかなりの高齢で、奥さんやこどもさん同伴で来てました。勲章を受け取ってから、お礼のスピーチがしたいと申し出た二人。このスピーチが、戦争当時を振り返る内容で、涙ぐむ人がでるほど、感動的なシーンでした。

そしてGroupe Vocal がアメリカ国家とフランス国歌をアカペラで歌いました。アメリカに来てから急きょ頼まれたことでしたが、感動的な雰囲気も手伝ってか、見事に歌い大好評でした。

アカペラだったから、私は階段下の総領事、大使のとなりで聞いてましたが、二人とも予想外によかったといった感じで、たいそう気に入られた様子。特に総領事は涙ぐんでお礼を言ってきました。彼はまだ若そうだし、自分の公邸ですてきなセレモニーができて、感無量だったのでしょう。
セレモニーの後、みなさんドリンクとともにパーティーが続くところですが、私達は20時にコンサートが待っているので、急いで移動となりました。ここで予想もしてなかった大ハプニングが起きたのです!!!
国家を斉唱したあと、若者はそのまま階段を上がり、建物の裏手から外に出てバスに乗り込みました。このときウラジミールは出席者の人と言葉を交わしていたものだから、私がメンバーの一人であるカンタンに、「ウラジミールの鞄も持って行って!」と頼みました。カンタンは「ここにあるの全部ウラジミールの?」と聞いてきたけど、そこには私たちの荷物がまとめてあっただけだと思い込んでいた私は確認もせずに、「そうそう、全部もっていって!」と頼みました。総領事公邸というだけあって、二階部分は総領事の家族の生活の場。この日のセレモニーの会場づくりのために、階段をあがったところには家具とかいろいろ積まれてて、ちょっぴり舞台裏事情、って感じになってました。私達はそこに荷物をおいてたわけです。
みんなバスに乗り込んで、ウラジミールもやってきて、さあコンサート会場であるロヨラ大学に向けて出発!となりました。
みんなセレモニーの興奮がまだ冷めやらぬという感じでしたが、数分してウラジミールが一言。「これ誰もカバン?」
一同・・・・・・・・・・・。
革製の立派なアタッシュケースを見て、メンバーの荷物じゃないことは一目瞭然。「誰かのもってきちゃったんだ!?」と思うと同時に、「大使のじゃないの?!」、「総領事のじゃないの?!」と冷かしはじめました。ウラジミールもギョッとして、みんなが顔を見合わせる中、イザベルがそっと中を見ました。そしたら「総領事のだー!!!」と判明。
一同大フィーバー!!!(笑)
うちら集団こそどろだー!!!
引き返して総領事に直接おわびして届けたいところだけど、コンサートのために時間がない。とりあえずセレモニーの会場にまだいるはずのデビーの携帯に電話をしました。もちろん留守録。でもデビーは私たちのコンサートにも来てくれるはず。「ちょっとしたミスで総領事の鞄を持ってきてしまいました。。。ごめんなさい。。。とにかく丁重に預かってますから。。。。」とメッセージを残す。
私たちがロヨラ大学に着くと、すぐ後ろからデビーが到着しました。そのとき総領事の鞄をもっていたのは私。デビーに渡しに行こうとすると、みんなが「leonardo 走って逃げろー!!」というから、私も悪ノリで反対方向に走り出しました。みんな大ウケ!(笑)
もちろんデビーに渡しましたが、こんなおもしろいハプニングはないと思って、きちんと証拠写真をパチリ。フランス総領事の鞄がleonardoの手に!

このハプニングのおかげで、みんなのムードは大盛り上がり。ちょっとしたウォーミングアップをして本番となりました。


そんなにお客さんはいなかったけど、マスタークラスを受講した学生とか来てくれてました。おもしろい日だったな。

2008年6月21日土曜日

Fêtes de la musique

6月21日、今日はフランスで夏至の日、そして音楽の祭典の日です。プロもアマチュアも、誰もが音楽を楽しむ日で、フランス中の町や村で、屋内でも屋外でも、広場や通りでもコンサートが催されます。この日のコンサートはすべて無料で、まさに誰もが楽しめる日なのです。ジャンルもクラシックから、ジャズ、ポップス、テクノ、ロック、なんでもありです。たいてい18時頃、夕方から始まって、0時、1時でもまだまだプログラムは盛りだくさん。まさに夜通しでみんなが音楽を楽しみ、踊る日です。


今年27周年を迎えるこのお祭りは、1981年に、当時の文化省の音楽・ダンス部長さんのアイディアではじまりました。フランス発祥のこのアイディアは、フランス語圏、フランス文化圏を中心に世界中に広まり、いまやヨーロッパ諸国、アメリカでも定着しているそうです。インターネットで見ていたら、日本でも音楽の祭典を広めようとしている人たちがいるようで、こちらのサイトをみてみてください。


http://www.mediatv.ne.jp/ongakunosaijitsu/index.html


今日の街の様子を紹介したかったんですが、どうやら私は疲れが出たのか、太陽が戻ったと同時に夏バテか、15時に仕事から帰ってから調子がよくなかったので、結局今日は家でおとなしくしていることにしました。報告は来年度にとっておきます。


さて、6月21日は夏至の日でもあって、フランスでは「今日から本当に夏!」と宣言されます。サマータイムになってから日もとっても長いわけですが、それもここ一週間がピーク。そういうわけで、夜の空の色を楽しむことにしました。

私の部屋から見える景色。
こちらが20時の空の色。日本だったら花火大会とか、20時からですよね?こちらはまだまだ日中のような空だから、花火はまだできませんね~。





そして一時間たった21時でもまだこの色。ようやく夕方?って感じ。





そしてさらに一時間。22時でもまだこの空です。花火にはまだ早いですね~。





でもここから日没はスピードアップ。15分で一気に暗くなります。





とはいっても同じ時刻にふと西の空を見れば、まだ夕陽の光が。








というわけで22時でもまだ花火はむりですね(笑)

私は日本の花火が大好きなので、フランスの花火には不満ですが、(だって大きさが、質が全然ちがいますもん)7月14日の革命記念日にはフランス各地で花火が上がります。ただこの日の長さのために、フランスの花火はスケールがちょっぴり小さいと同時に23時頃に始まるんです。花火を見に出かけたならまだしも、家でおとなしくしてて寝るころにどっか~ん!どっか~ん!って音ばっかりうるさくて、腹は立たないけど、クスッと笑っちゃう私です。花火は日本が世界一!

2008年6月20日金曜日

Groupe Vocal アメリカ演奏旅行7

2月21日金曜日。
この日は唯一、朝の予定がなく自由でした。だからもちろんまずはゆっくりめに起きて、(まあ昼間で寝ていたいところだけど、ホテルの朝御飯には時間がありますからね、、、)ゆっくり朝ごはんを食べました。


こちらがホテルMaison St.Charlesの朝ごはんルーム。壁にはフランスの昔のポスターが飾られてます。テラスが中庭に面してて、そこにはプールとジャグジーが。



聞いたところによると、Groupe Vocalの若者は疲れていたから、夜、街に繰り出すのは控えたかわりに、みんなでこのジャグジーを楽しんだそうです。しかも、おおはしゃぎのフランス人集団がおとなしいわけがありません。相当うるさくしてたんだろうなとは思いますが、他の宿泊客が注意をしようと思って出てきたところを逆手にとって、みんなでアメリカ国歌を歌って、拍手を浴びたそうです。ほんとマイペースなフランス人。


ホテル正面の写真。これはウラジミールが撮ったものをいただきました。Avenue St. Charles にあって、通りをトラムが通ってるので便利です。
ホテル内にはこんな感じの建物がいくつかあって、それぞれ中庭があるものだからスペースたっぷり。

この三日間、私にあてられた部屋はひろびろツインルーム。使わないほうのベッドには服とか身の回りの物をば~っと広げて、かなりのびのびできました。

この日は、午前は自由行動だけど、お昼はみんなで街のレストランで一緒に食べることになっていました。唯一、観光するチャンスの日。疲れてはいても、ニューオリンズの街を見ないわけにはいきません。朝ごはんでサビンヌとすれ違ったから、一緒に出かけることにしました。みんなの世話で疲れてたサビンヌもつかの間の自由時間。
ホテルを出るとちょうどやってきたトラムに飛び乗りました。中に入ってみると、レトロな外見と同じく、中も昔のまま。黒人の車掌さんが立ったまま運転してます。


木の椅子がとてもいい味をだしてます。


ニューオリンズで予想以上だったのがときたま降る激しい雨。サビンヌと街に出る直前もザーっと強く振りました。このときすでに11時は過ぎていたので、お昼の集合時間まで本当に時間がない。ショッピングもしなくっちゃと、まずは二人でミシシッピ川沿いにあるショッピングセンターに向かいました。そしたら入口はまさにミシシッピのほとり。

霧のミシシッピ。向こう岸とか全く見えませんでした。
ショッピングの持ち時間は1時間弱でした。ドルとユーロではユーロが強いので、Gパンとか買いたかったけど時間足りず断念。それでも私は服を一着購入。ここから待ち合わせのレストランまで二人で大急ぎで移動しました。
こちらはニューオリンズのカジノ。中に入って様子を見たかったけど、時間なし。。。
ニューオリンズの観光中心地、フレンチクウォーターに来ると、なにやら懐かしい感じが。なんで懐かしいのだろう、なんだか知ってる街並みだぞ?と思いました。映画とか映像でみたのかな?なんでかな?と頭の中をあれこれ探していると答えを発見。みなさんこの写真の街並み、どこかで見たのでは?
そうです、東京ディズニーランド!!おみやげを買うエリアのショッピングモールってニューオリンズの街並みじゃなかった?絶対そう!

このときのお昼の約束は、デビーの勧めであるレストランを予定にしてたのに、グループの若者は「ここじゃ食べたくない」と不満をいう。イザベルも「ろくに席もなさそうじゃん」とかいうから、結局他の店を探すことに。なんだろ、フランス人てやっぱり食にうるさいのかな。私としては結局日本人な一番舌が肥えてるグルメ民族だと思ってるんだけど、フランス人はとにかくいやなものはいやだと主張する民族ですね。

結局レストランを探したりしたもんだから、さらに時間をロスして、ろくにゆっくり食べれなかったわ。そして段取りよく、リムジンバスが私たちを迎えにきてくれてたから、ホテルで休んでたウラジミールをひろい、そのままロヨラ大学にむかいました。

ホテルからロヨラ大学まではだいたいトラムにそっていくのですが、このアベニュー沿いの家の豪華なこと!ニューオリンズのあるルイジアナ州は貧しい印象が強いけれど、同時にこの豪華な家を見ていると、貧富の差が激しいだろうと強く感じます。



フランスの家だって、日本の家に比べたらみんな大きくて「わあ、リッチ!」という印象をうけるけど、ここの家の大きさは、その「大きい」のスケールが違った。



どの家を見ても半分お城?って感じがしたもの。


さて、この日の午後の日程は、まず練習。そしてその後、イザベルのマスタークラスが予定されてました。
みんな朝の自由時間のおかげでちょっとリフレッシュできたかな、気をとりなおして練習をしました。みんながウォーミングアップをしている間、私はふらりとホールを見学しようと思って舞台裏に入ってみたら、薄暗い影で誰かがしゃべってる。誰これ?と思って寄ってみるとそれはポールアントワーヌ!彼はフランスのママとの電話の最中だったんです。まあ彼もまだ高校生。地球の裏側に旅立った息子の声を一日に数回は聞かないとママも心配なのでしょう。でも彼の普段のキャラから言って、からかいっ子の私からしたら放ってはいられないので、写真をパチリ。そしてフランスに帰国後、グループのみんなにあげる際にはしっかりいたずらを加えてみました。

「もしもし、ママ?」
この写真は大好評でした。

私たちが練習をしたのは、翌日コンサートをするルーセル・ホール。17時半になるとマスタークラスのために音楽学部のある棟に移動しました。
そしたらこんな素敵な中庭が。

ロヨラ大学では6人の学生が受講しました。それぞれマスネやグノーなどのオペラのアリアを歌いました。


ラファイエットのルイジアナ大学に比べると、やっぱり都会の私立大学ということもあって、学生のレベルも引き締まってたように思います。年齢も上に感じたから、きっと大学院の学生かな?


全体的に言えることは、みんなよく勉強していることが感じられる演奏でした。日本の音大みたいに、みんな総合的に教育を受けているから、知識の面ではフランスの地方のコンセルバトワールよりもずっとかレベルが高いと思います。ただ、パワーにまかせて歌うスタイルが目につきますね。みんなオペラ歌手というイメージが頭にあるから、それを真似るようにパワーで歌う。このことを冷静にマイナス面だと捉えられるようになったのは、フランスに来てからリラックスした自然な発声法を知ったおかげでしょう。日本だって18歳で音大とかに入り、体がまだまだできてないのに、技術的に難しいアリアとかを試験で歌って、あれはよっぽど恵まれた人以外には「無理でしょう、、、」と思えるもの。


フランス文化、日本文化にそれぞれいいところ悪いところがあるように、音楽教育にもそれぞれ強い点弱い点がありますね。

さあ、マスタークラスが終わると19時前。どうやらイザベルとウラジミールだけいいレストランに行こうとしていて、残りのみんなはそろってホテル近くのレストランで食べろということらしかった。それはさすがにサビンヌにとっても不愉快だろうし、結局はみんな一緒に食べることに。
そしてこの夜が、ニューオリンズの夜を楽しむ唯一のチャンス。サビンヌは疲れていてもう寝るというから、今回はイザベルと街に出ることにしました。ニューオリンズのジャズを一目も見ることなく帰れないでしょう?!
かわいいトラムも、観光地にしては意外なことに本数があまりない。。。。歩いていくか、トラムを待つかで迷ったけれど、30分近くしてようやくトラムが来ました。
車内も光もなんだかレトロでいい感じ。老いも若きも、夜のニューオリンズに向かう観光客はいっぱい。


向ったのはお昼と同じフレンチクワォーター。
この地区は周囲を大通りに囲まれて、京都の街並みみたいに規則正しい通りが上下左右に通っています。夜はほとんど歩行者天国のような感じ。このエリアはそんなに広くないし、ジャズが聴ける店をいくつか様子うかがいに覗いたけど、どこま人がいっぱい。一番有名な店なんかは立ち見のところもあって、イザベルと私は「それならゆっくり落ち着けるところにしよう」と、店探しを続けました。
でもとにかく、この店からも、あの店からも音楽が聞こえてきます。街角にはストリートミュージシャンもいて、「ニューオリンズだー」と実感。


とある交差点の角で、よさげな店をみつけました。窓も大きく開かれているからそこか覗いてみるといい感じ。

ちょうどトランペット、サックス、ドラム、コントラバス、そしてピアノのクインテットが演奏中でした。スタンダードなオールデイズジャズ。中に入ってテーブルにつくと同時にカクテルを注文。
音楽もいいし、店の雰囲気もいい感じ。


トランペットの彼は歌も歌う。サックスの彼はクラリネットも吹く。45分くらいここにいたかな?このグループが休憩に入ったところで、帰りのトラムも心配だし、明日も早いから夜遊びも控えめに、ホテルに帰ることにしました。
24時前にはホテルに戻ったかな?
本当に自由時間のない日程だけど、とりあえず昼のニューオリンズと夜のニューオリンズを制覇しました。観光の満足度最低ラインをクリアだけど、やっぱりまたゆっくり来るしかないかな?この演奏旅行も残りわずかです。