2009年9月29日火曜日

まぬけなもので1年と7か月かかりました。。。

フランスのインターネット事情は、ここ2,3年で急速に発展してきたとはいっても、やっぱり日本よりはだいぶ遅れていると思います。


私はあまり詳しいことは知りませんが、伝達速度が20メガバイトで「高速!」とかいってますからね。
だってこちらはまだまだADSL回線が主流なんです。
私の印象ではフランスの経済市場はここ数年で活発化してきたように思うのですが、電話やインターネットの市場もその代表例。もともとは元公共電話局フランステレコムの独占市場だったところへ、いろんな会社が乗り込んできました。今の三大大手はフランステレコムのオランジュ、SFR、そしてn9ef と言われていて、そこにfree、Alice そして唯一のケーブル配線が売りのnumericable と最近サービス開始した大手電化製品会社のDarty ダーティーの4会社が接戦で健闘しているようです。

各社どこもがそろえてるパックというのが、インターネットと電話とテレビのセットのサービス。電話回線をもとに、インターネット回線と衛星テレビの回線を提供するというもので、これを使うと家庭の固定電話への通話が無料でかけ放題、80チャンネル以上ある衛星テレビが見放題、そしてインターネットもつなぎ放題ということになります。

質の安定度を売りにするオランジュに対し、各社は値段をさげて競争していますが、さしずめ月々30ユーロから40ユーロといったところです。

ケーブル配線のニュメリカーブルだけが30メガバイトから100バイトという本当の高速回線を提供していて、他の各社はADSL回線ですから伝達速度は遅い遅い、、、。

さて、私は今いるアパートに引っ越してきた当初は、ラッキーなことに近所から飛んでくるワイヤフル回線の電波を拝借することができていたんです。それがある日突然使えなくなってしまいました。まあ逆にいまどきパスワード入録も何もなく電波を使えていたこと自体が驚きですが。

で、突然インターネットに加入する必要ができて、最大手の安定度をあてにしてあまり検討することなくオランジュを選びました。以来、私は月々43ユーロ払っていて、私には「高すぎ!」な値段です。

というのも、もともと私が必要としていたのはインターネットだけでした。私は完全にEメール派なので、電話というのは必要最低限しかしません。しかも、固定電話でたくさん電話したい相手というのはいません。そのためこの固定電話かけ放題というのはあってもなくても同じようなもの。

そして全くバカな話がテレビの話。私がここへ引っ越してきたとき、ちょうどフランスでは衛星テレビのシステム普及やデジタル放送の話が出てきたころでした。で、私のアパートでは5つの地上波チャンネルに加え、8つの衛星チャンネルが自動的に入ってきていたので、これだけですでに満足していた私には、なにも80以上のチャンネルを欲しがる理由はなかったんです。で、オランジュでインターネット+電話+テレビのサービスに加入した時、実は機械をテレビとつないでも、うまく作動しなくて何も映らなかったんですが、「ま、いいや。」と思って放ったらかしにしてしまったんです。

しかしある日、自動的に無料で見れていた8つの衛星チャンネルが映らなくなり、そのうえ地上波チャンネルの画像も突然悪くなりました。この時点で大家さんか自治会の人に問い合わせたらよかったんですけど、忙しかったのもあって、また「ま、いいや。」で放ったらかしにしてしまったんです。

結果、私は43ユーロ払ってるけど、使ってるのはインターネットだけ。そしてテレビは80チャンネルないどころか、5チャンネルもあやしいという状態に陥りました。

こうなったらさすがにせっかく機械をもってるのにつなぎもしなければ、テレビも見れないままというのはムダすぎると思い始め、たまに気が向いた時に機械を引っ張り出しては配線を確認し、衛星チャンネルが見れるのかどうか試してみました。

でも、何度やってみてもさっぱり。私は機械に弱くはないから配線を間違ってるはずもなく、普通なら動くべきところがなんにも。なのでこの時点でオランジュに問い合わせをするべきでした。

ところが私はまた「ま、いいや。」と思ってしまったんですね。この衛星チャンネル80以上というのにあまり期待をしていなかったんでしょうね。ここ一年半で3、4回、機械を引っ張り出してつないでい見て、何も映らないからまたしまうということをしました。

ところが最近になってそのことを友人に話すと、「そんなあほなことがあるか。43ユーロ払ってインターネットだけしてていいのか。ちゃんと機能するはずだし、機能するべきだろう。」と言ってあきれられました。まあ確かに普段節約家の私がここで無駄遣いをする理由もない。

私がずっと放っておいたのも、私が頭の中で「どうせフランスのことだから電話してもすぐ対応しなくて、機械をもってこいだの対応時間がどうのだのめんどうくさいことになる。」と思っていたからなんです。問題解決するのに時間がかかりそうなのとめんどうくさそうだったから、それならば「まあ、いいや。」にしておきたかったんですね。

で、やっとのことで重い腰を上げたこの日曜日。

私はオランジュのテクニックサービスに電話をしました。

「あの~、実はですね、私加入して1年と7ヶ月になるんですけど、テレビが見れないままなんです。。。」と担当者に言うと、「わかりました。あなたのパスワードを確認して、機能していなかったら新たに作動させますね。数分待ってもらえますか?」と言われました。で、私は素直に数分待つことに。

電話口では待ち時間の音楽も音声も何もなく、沈黙の数分間。何にもせずにぼ~っと数分間。フランスのこういうお客様問い合わせ番号というのは無料じゃないんです。だから5分、10分とたってきて、だんだん私も「あ~、こうしてる時間も無料じゃないんよね~。」と思い始め、電話口で「もしもし~。すみません~。聞こえますか?」と声をかけ始めました。でも相手は沈黙のまま。

そうこうしているうちに、配線を全部つないでそのままにしてた機械にちょっと変化が。今まで「--」か「1」の表示しか見たことなかったのがいつのまにか「3」になっていた。しかもテレビの画面にオランジュのロゴマークが現れた。

「お!」

と思って時計を見るとさっきから18分経過しています。

「もしもし~。」と声をかけ直すけど相変わらず無言。

彼は「数分」といったけど、数分じゃすまないのはフランスの常。だからこのまま待つべきなのか、彼が待ってといったのは電話口でなくて、テレビの作動に数分待ってといったのか、だんだんわからなくなってきました。が、こういうときに律儀な私は勝手に電話を切ることができない。でもさすがに20分経過したときに電話を切りました。

さっき変化があったテレビ画面ももとの真っ暗闇。でも改めて説明書を読んだら「たまにある一定の時間を要することもあります。」と書いてあって、しかも「表示画面で「1」から「4」と作業の進行具合を示します。」と書いてある。今までこのことに気をつけたことはなかったんですが、さっき初めて「3」が出ていたのを思い出して、変に手を入れずにそのまままってみることにしました。

そしたら!

ちゃんと「4」の表示に切り替わって、そこからパスワードの入録画面が出てきてました。そして順調に作業を進めることができ、奇麗な画像の衛星チャンネルが入手できました。

めでたしめでたし。

普通、言われているのは「80チャンネル以上が見れる。」ということでしたが、何やら私のテレビからは軽く100を超えるチャンネルが見れるっぽい。映画専門チャンネルはもちろん、世界各国のニュース番組なんかも入ってる。これはすごい。これが見れて当り前の契約をしてたのに、一年半以上も利用できてなかったのか私は。。。

そこでちょっとひっかかったのが今回の問題解決。

電話で対応してくれた担当者が私のパスワードを再作動させてくれたおかげなのか、それとも線をつないでから数分間待てというのを私が十分にまたなかったから、何も画面に現れてなかったのか。

もしそうだとしたらちょっとまぬけな話だぞ。。。

ま、そんなこんなでやっと我が家できれいな画像のテレビが見れるようになりました。しかも120チャンネル以上。数日前までのわずか3チャンネルがひどい画像で見れていたというのからしたら画期的な変化です。

ただでさえ日本よりも遅れてるのに、こうしてフランスの標準環境よりも遅れていたとは。ちょっと浦島太郎状態だったことに気がついた私でした。

2009年9月26日土曜日

祝8周年。あ、間違えました7周年!

前の記事に続きますが、今日で私のフランス生活7周年を迎えました。

2002年の9月からのできごとを思い起こせば、結構波乱万丈、山あり谷ありのサバイバルでした。

7年間同じ場所にいるというのは、実は私のとってはすごいこと。
親の転勤で引っ越しをした子供時代に加え、大学生時代はちょっと寮生活をしたり一人暮らしをしたりもしたし、大学卒業後は三重と京都を行ったり来たりしたので、一か所でじっくりと落ちついて生活をしたというのはあんまりないんです。小学校後半から大学入学までの8年間、三重県の家で暮らした以外は、結構いつも動いていた。。。

そんな私がモンペリエに住んで8年目というのは記録的なことになってきました。
もしかしたらもう少しして、モンペリエが私が一番長く暮らした町ということになるかもしれないんですよ。
小さい時からいつも都市圏に住んでいた私にとったら、モンペリエは小さな街。下手したら退屈していまいそうなのに、いろんな出来事のおかげで退屈することなく8年目を迎えました。
縁もゆかりもつてもつながりも何もなかったこの町で、です。
人生は不思議なもんです。

でもこの7年間の波乱万丈生活に比べたら、これからはまたちょっと違った趣の生活になっていくことでしょう。7年間で培ったものが多少なりとあるわけですから、完全なゼロからスタートした2002年とは違いますからね。
どうなっていくんでしょうね。
「よし、モンペリエを離れよう。」と決意する日も来る可能性だって高いわけです。どんな状況で、どんな心境でその決断をするんでしょうか。
自分のことながらちょっと興味津々です。
「よし、日本に帰るぞ。」と思うのか、また別の三国へ向かってしまうのか?


ちなみに、例の滞在許可証の更新はできていません。って当然のごとく、というか。
今のところ県庁からはうんともすんとも言ってきていません。
10年カードにしろ、1年カードにしろ、やっぱり早くくれるといいな~。

2009年9月20日日曜日

8回目なれど、、、

早いもので、9月下旬に入ろうとしています。
モンペリエでもすっかり気温が下がり、夏は終わってしまいました。

毎年この時期になると私を悩ませるもの。それは滞在許可証の更新。

私がフランスに来たのは2002年9月25日。

以来、一年期限の滞在許可証を発行してもらい、毎年9月24日が有効期限となるカードをもらっています。そして毎年この時期を過ぎてしまわないように更新をしないといけないのです。

学生ビザでフランス入国をしたわけですが、2003年から仕事をするようになって、2007年にフランス人と同じように働ける権利を得られる「サラリエ」(給与所得者)の身分を与えてもらいました。仕事をする上での制限もなくなり、とってもうれしいのですが、一年期限のカードというのはやっぱり目の上のたんこぶ。仕事を続けているわけだし、法律、規則にそって合法的に仕事をしているので、「普通は来年もらえる。」とは言われても、来年もまた滞在許可証をもらえるかの保証が100%ないというのは落ち着かないものです。年も年だし、人生計画をたてるうえでももうちょっと長期で見通せる環境を手に入れたいという欲求は自然なもの。

というわけで、私はいわゆる「10年カード」の取得を目指しています。


滞在許可証を更新する届け出は、期限の2ヶ月前に提出しないといけないといわれています。そのため私は6月にそのことで質問をしようと県庁に行きました。今日はその時の話です。


エロー県の県庁では、フランス人のパスポート発行、車両登録、運転免許発行など、それぞれの担当窓口があって、各受付時間も違います。中にはすべての人を同時に対象とする時間や、すでに手続き進行中で召喚状をもってる人のみ対象の時間や、何も書類がない人のための時間などが決められていて、それを知らないと二度、三度と足を運ぶはめになります。

今ではモンペリエ市外に住んでいる人は、それぞれの市町村の役所に申請書類を提出できるので、そういう人は召喚状をもらってから受け取りの時にだけこの県庁にこればいいことになっています。

郵送での書類受付も一部認められ、少しずつ改善はされているようですが、郵便もあまりあてにできない国。大事な書類はやっぱり直接提出する人は多く、今だに県庁というのはどんなフランス人にとっても待たされる場所で、何度も足を運ばないといけないところ。皆がうんざりしている場所の代名詞なわけですが、そんな彼らはまだまだ甘い。

だって、フランス人対象の一般業務はまだ我慢ができる範囲だから。
待たされるのはフランス人が効率よくてきぱきと仕事をすることを知らない人々だからであって、何も県庁に限ってのことではないと、一日本人の私は思う。


さて、ほんとうにひどいのは「外国人受け入れ担当課」。厳密にはEU諸国以外の国から来た人を担当する課です。だって、今やEU諸国とは国境がないも同然の方向で動いていて、「EU諸国の人受け入れ課」は独立して設けられています。だからEU諸国以外の国から来た人を本当の意味での外国人としましょう。

この「外国人受け入れ担当課」の人は、わりときちんと仕事をしているように思えます。すごい数の外国人がいるという現実を冷静にとらえた方が正しい。そして何がひどいかというと、このすべての外国人をたった一つの窓口で同時に扱おうとしていることから、たくさんの無駄が生じてるんです。

「外国人」と一口にいっても、その実態はさまざま。

この窓口で小分けされているのは以下の4つのグループ。

・ 召喚状を持っている人

・ 召喚状を持っていない人

・ 学生

・ 亡命、避難民申請の人


召喚状を持っている人というのは、もうすでに申請をした後で、発行を待っている人のことです。外国人学生の申請を担当する施設は県庁外に別に設けられています。そして亡命、避難民というのは明らかに社会情勢、政治情勢が難しい国の人対象で、誰でもかんでも受け入れてもらえるものではありません。

というわけで、残りのすべては「召喚状を持っていない人」に分類されます。

この人たちのための受付時間は月曜、火曜、木曜、金曜の8時半から12時まで。8時半というのは県庁の開館時間。でも召喚状を持たない外国人は開館前、早朝から外で列をつくって並び、8時半から配られる100人分の番号札を受け取ります。これで実際の窓口で順番待ちをする権利を頂くようなもの。たとえ8時半より早く来ていても、100人目より遅かった人には「ハイ残念。もう番号札はありません。明日以降に出直してきてください。」と非情な言葉がかけられます。

たった一つ質問をしたいだけでも、この早朝列並びをしないといけないというのがひどい話なのです。

例えば経済的に問題がなく、雇い主もちゃんといて、書類は不備なくそろえられている人。私はこれに属しますが、はっきりいって2分あればことは済むんです。なのに早朝から列を作って、さらに数時間待たされる。。。

かたや、本人は以前にフランス国籍を与えられたアルジェリア出身者で、母国に残る家族を呼び寄せたいという人の場合。本人自身、十分な所得はなく、フランスの医療社会保険や住宅手当の恩恵を受けているのに、さらに子だくさんの大家族を呼び寄せたいというのです。そこでもし県庁の人が「無理ですね。」と言って本人が引き下がらない場合、かなり大声でのやり合いに展開することもあります。

またよくあるのが、申請したのに連絡がいっこうにないという問い合わせ+苦情。こういうとき、たいてい本人は現在の許可証の期限が切れてしまっていて、不安とストレスにおそわれているのでとってもピリピリしています。そこで担当者が「そのうち連絡がいきますから待ってもらうほかありません。」などというと本人の怒りが爆発して怒鳴り合い、、、。担当者も「待ってもらうしかないと言ってるでしょう。今どんなに怒鳴ってもらっても私には何もできません!」といって叫ぶのです。

見てて感じのいい光景じゃないですよ。

まあ、こんなの極一部の例ですけど、毎回、私も県庁に行くたびに、日本にいては目にする機会もなかったような「外国人」という実態を目にするわけです。

さて、今回、私の場合は書類をそろえる前に、10年カードの申請についての情報が欲しかったわけですが、インターネットなど何をみても、はっきりと示されていません。問い合わせをしないといけないわけです。でもそのためだけに早朝の列並びはまっぴらごめんです。

だから県庁ロビーにある総合受付で質問してみることにしました。そこには各書類の申請用紙や必要書類の説明などがおいてあるからです。

この日、私があたったのはあるマダム。「あの~、10年カードの申請に必要な条件とか知りたいんですけど、、、。」と聞くと、「10年カードは国籍や人それぞれの状況によって異なるから、窓口で質問してもらわないとだめです。」という。「え~。ちょっとだけでも参考になること教えてもらえませんか。」とくいさがる私にこのマダムは「無理です。とっても複雑だから窓口の担当者に聞いてください。早朝にこないとだめですよ。7時には来ないとたくさんの人がいるから。」とまで言う。

質問をするだけのために7時に来ないといけないのか?

去年ちょっと質問したときは、若いお姉さんが「直筆の嘆願書をそえてください。」と教えてくれたんです。

確かに政治情勢は常に変わっているから、去年の情報をあてにしててはだめ。でもなんでこのマダムは教えてくれないのか。朝が苦手な私にはまるで腑に落ちない話。

これですっかりやる気がなくなりました。外国人のやる気をなくさせるために仕事してたりして?とまで思ったりする。それに仕事だってあるし、午前中まるまるつぶれるというのはいつでもいいわけじゃない。で、結局これから数日間、私はこの話を放棄してました。

同時に、フランスでは人によって言うことが違うというのがお決まりだということを思い出しました。私があたったマダムがたまたまあんなことを言っただけで、去年のお姉さんのようなことをいうこともあるわけです。で、朝の7時から何度も足を運ぶのは嫌なので、いつでも質問できる総合受付にまた改めて行きました。

今度あたったのはムッシュー。しかもかねてから日本人女性好きとして噂のあるムッシュー。私はうっとおしいのは嫌いなので、必要以上にニコニコすることはせずに淡々と「滞在許可証の更新の必要書類を教えてください。」と頼み、必要書類の一覧が書かれた紙をもらいました。見たら去年と全く同じ内容。

で、後になって大事な質問をし忘れたことに気がついて、また総合受付に引き返しました。するとさっきのムッシューがとなりから「おや、またあなたですか!県庁が好きなんですね~!」と声をかけてくる。そこはさらっと流して、私は目の前の若いお姉さんにあたった。去年とは違う人だけれど、その人に「10年カードの申請をしたいんですけど、普通の更新申請と何が違いますか?」と聞いた。そしたらまさに去年のお姉さんと同じく、「直筆で嘆願書を書いてください。」という。

要するに、一年カードの更新と同じ書類に手紙を添えたらいいだけのこと。

やっぱりこの質問をするためだけに7時から並ぶ必要はなかったってこと。

私はすぐさま必要書類をそろえ、7月23日に朝から県庁に向かいました。

私がついたのは7時半すぎ。なにやら例年より人が多くて、県庁の前から横手の広場まで列は続き、「もしかして来るの遅すぎた?もう100人越してる?」と私はドキドキ。でも一人だから列から離れて人数数えにいくわけも行かず、8時半までぼさ~っと列に並んで待機。そして8時半に担当の警察官が門を開いて、外国人に番号札を渡し、数人ずつ館内に入れ始めました。私は「はい、今日はここまでです!」と言われるかと思ってドキドキしてましたが、私も無事に番号札をもらえました。が、そこには97の数字が!7時半に来た私ですでに97人目だったのです。私の後ろにいた人たちには例の「また出直して来てください。」の声がかけられて、私はすぐ後ろにいた人と、「よかったね~。うちらギリギリ。」と顔を見合わせました。私もあと3人分遅かったらアウトだったんだから。

こうして私が入館できたのは8時45分ごろ。外国人担当課の様子をちょっと見てから、いったん家に帰ることにしました。徒歩15分のところに住んでるのもラッキーな話。11時ごろに県庁に再び戻って待機。やっと私の番が呼ばれたのはもう12時のこと。

ごねたり激しい言葉を交わしたりする他の人とは違って私の場合はいたってシンプル。

書類を出して、サインをするように言われて、「はい、これでいいです。」で終わり。あまりに順調だから担当マダムもにっこり笑顔。

ほんとに1分もかからないことなんですよ!

あとは召喚状なり、何かの連絡が県庁から来るのを待つばかり。

以来、待ちました。待ってます。でもあれから2ヶ月となりますが、今のところ一向に連絡はない。あと数日で私の許可証の期限が切れます。落ち着かないですけど、申請も8年目となると、「私は私のすべきことをしたのだから、待つしかない。」と言い聞かすことができるようになりました。まあ、書類を申請済みというのを証明するものも何もないんですけどね。。。

さて、私は10年カードをもらえるんでしょうか?

2009年9月18日金曜日

c'est reparti !

「さあ、始まった!」や「よし、始めるぞ!」みたいなことをフランス語では「c'est parti !」といいますが、再開するとなると「c'est reparti !」となるのです。

新年度が始まって、先週の土曜日には音楽学校でのレッスンも再開し、まさに「c'est reparti !」な心境なわけです。

この夏は本当のバカンスは8月頭の二週間だけでしたが、音楽学校の休みが7月頭から9月半ばまであり、オペラjrの方も規則的なベースとなる活動は7月と8月の二ヶ月間ないわけですから、この2ヶ月半の間の私の生活リズムはバカンスバージョンとでもいいますか、不規則な単発の仕事をかかえていただけで、かなりのんびりゆったりとしたものでした。

それがすべて再始動となると、私もフル回転。バカンスバージョンとフル回転のその差は大きい。

ここ2年、3年でオペラ界隈での仕事がどんどん増えていった状態なので、今後はちょっとだけでもピアノの生徒をおさえよう、減らそうと思っていたものの、なぜかまた生徒数が増えてしまった。。。

音楽学校での生徒が今の新年度スタート時で32人。うち5人が今年からの新しい生徒さんです。プライベートでの個人レッスンの生徒も、新しくくる話は断ろうと思って実際に6月には断ったりしてたのに、なぜかやっぱり増えて6人に。オペラjrが水、金、土が毎週必ずで、さらに日曜日やらバカンス中の集中練習や、本番前の練習がさらに加わります。

ただでさえ普通の人のリズムとはずれた生活リズムなので、せめて普通の人々のように普通の日曜日をできるだけもとうと思っていたのに、また別のところ、しかも某指揮者さんからピアノ伴奏のお話をもらったので、勉強と経験のために断るわけもなく、予定通りいくと週末のお仕事が加わる。そこへさらにオペラ座などから臨時の仕事を頼まれると、一応できる限る引き受けるスタンスでいるので、すべてが重なる時にはえらいこっちゃえらいこっちゃ状態になるわけです。

私の場合、自分の健康のためのリミットというものが存在するので、ドクターストップとまではいかなくても、きちんとそうなる前に「ほどほどのところで仕事を断ることを学べ!」と医療関係者ならび周囲の人にかなり口うるさく言われていて、自分でもわかりきっているつもりなんですが、この前の6月のように明らかにリミットを越えてしまう活動量になってしまうときがあるんです。

ピアノ教師の仕事はともかく、伴奏ピアニストとしての仕事は土壇場で頼まれる仕事をこなしてこそ、評価が上がり、またさらなる仕事がくる、というパターンでなりたつ世界ですから、せっかく来る仕事の話を断りだしてしまったら、下手したらそのうち干されてしまう職業なんですよね。いかに無理難題を引き受けて要求に応えるかで、自分の腕前を見せることができて評価を得ることができる、そんなちょっとマゾ的な世界。。。


私も今すでにわかっているだけでも、この先6月までしっかりスケジュール帳がうまりました。

厳しい経済不況はまだまだ長く続くようで、フランスの失業者数はまだ増え続けています。そんな時代に、自分から仕事を探しにいかなくても仕事がむこうから私の方にやってくる感じな私のモンペリエ生活。これは何かご縁があったとしか思えません。

そう思うとなおさら、せっかくくる仕事の話を断ったりできなくなってしまっている私なんです。

で、4月にしてしまったように、午後コンサートで弾いて、その後音楽学校へ直行してレッスンして、また早めに切り上げて猛スピードでモンペリエに戻って20時にはオペラの字幕を担当していたなんてことになるんですね。あれはちょっとやりすぎましたね。だってその翌日はまたレッスンとコンサートがあったんですから。ゆっくり呼吸してコンサートに備えるくらいのことはしてもいいかと思います。

でもまあたまに超忙しい時期があるとはいっても、年中同じリズムでしかもハードに働く日本人サラリーマンとは違って、シーズン制リズムの私はやっぱり日本人にしてはスローライフを実践してる方かも。だって年に何週間かのバカンスだってちゃんともててるわけで。。。

でも確かに健康が第一。
きちんと自己管理をして、今年度もつつがなく、そしてまた新たな冒険がたくさんある一年となることを祈って、2009-2010年度に挑みます。えいえいおー。

2009年9月17日木曜日

あれから6年???

今日、懐かしい人からメールが届きました。
仕事関係で、とある日本のサイトを利用するのに助けてほしいとの用件で。
「ちょっと急ぎだし、よかったら今の電話番号も教えて。」と言ってきたから、返事のメールに「番号は変わってないよ~。」と書くと、さっそく夜になって電話がかかってきました。

「もしもし~?」と日本語で始まるその声の主はH。

彼と出会ったのは2003年の夏。
私はその夏、当時トゥールーズに語学留学で滞在していたいとこを通して、トゥールーズの超仲良しボーイズと出会ったんです。全部で7人の男の子と知り合いましたが、私がその後もコンタクトをとったのは3人。
私たちは年齢もほぼ一緒で、一歳上と同い年と一歳年下。
なにやら波長が合ったようで、2003年の秋には一緒に二泊三日の小旅行もし、とても楽しくリラックスした時を過ごしました。
当時の彼らは仕事探し中だったり、キャリアアップを模索中で、私の方もフランスに来てまだ一年がたったばかりで学生身分。みんなしてまだ「若者」ムードをもってました。

その後、この三人のうちの一人は学生として沖縄に旅立ち、一人は研修でナントに引っ越し、もう一人はペルピニャンに仕事を見つけて引っ越し、私はモンペリエで仕事をし始めて、環境がどんどんと変わっていきました。
2004年に一度だけ他の二人とは再会をしましたが、Hは中国に仕事を見つけて旅立っており、結局、2003年の秋から一度も再会することなく今日に至っていたのです。

とはいってもかろうじてコンタクトはキープしてきた私たち。彼が中国に行ってたときにちょっとだけメールでやりとり、中国から帰ってきたときには電話がきて、そのあとだいぶご無沙汰して今年の一月にメールでやりとり、そして今日の電話となりました。
要するに、とても数少ないやりとりで今日に至ってるわけです。

でもおもしろいもので、このHとは波長が合うのか、恋愛の一目ぼれとは全く違うけれど、兄妹なのか姉弟なのか、なにやら「同種」のオーラを持ち、何かのつながりがあるとお互い感じている存在。
1年、2年としゃべっていなくても、話し始めたらまるで昨日もしゃべっていたかのような感じになるのです。

今日は一応仕事のためもあってきっかけができたわけですが、久しぶりの話は尽きず、仕事の話、恋愛の話、家族の話、友達の話、、、と長電話になりました。

そこで驚いたのが、2003年から今日までの間にみんな確実に変化し、前進しているということ。

2003年にトゥールーズで出会ったグループのうちの一人は、すでにパパになっていて、もう一人はまもなく2人の子のパパになるという。別の子は中国で仕事をし、能力を認められて順調に昇進をして、今では20人くらいの部下をしたがえる部長さんだとか。

H自身の話もおもしろい。
前回、電話でしゃべったのが彼の中国からの帰国直後のことでした。
そのとき、すでに2年ほどのブランクにもかかわらず、突然電話がかかってきて、
「leonardo。助けてくれ。僕はどうしたらいいかわかんない。。。」と悩みをうちあけてきたのでした。
その時は思いっきり恋愛の悩みだったんですが、なんやかんや言って今日も結局は恋愛の悩み話でした。
私と電話でこうして直接しゃべるのは4年ぶりなのに、「複雑でどうしたらいいのかわからん。。。」と言ってくるセリフはまるで前回と同じ。しかも彼をこうして悩ますのは前と同じ女の子V。
私はこのVと直接出会う機会はないままだったんですが、こうして話を聞くのはかれこれ6年越しのこと。一緒になっては別れ、一年ほどするとまた一緒になって、するとまた問題ができて別れ、、、と繰り返してきた二人はもう10年越しの仲。
まあ、私たちも年齢を重ねていっているので、仕事などの事情は前よりも複雑で大事になっていってるわけですから、彼の悩みもまたやっかいになってきていってるのは確か。
それにしても彼の話を聞いていると、「あんた、彼女にふりまわっされぱなしじゃん!」の一言に尽きるんですが、ま、仕方ないですよね。彼の性格があって、彼の長所がアダとなり、、、てパターンですからね。でも、彼がこのまま繰り返して40歳とか越えていくのを見守るというのはあまりうれしくないですねえ。なんとかしてもらわないと。


それにしても、このH、中国から戻ってきてパリでしばらく仕事をした後、ヴェトナムに旅立ち、むこうで仕事をしていたのだそうです。その辺のあたりは連絡をとっていなかったので知らなかったんですが、Hも現地でかなり大きな会社に勤め、200人近い人が働く部署のナンバー2だったのだとか。そして大きな一軒家が与えられ、さらには運転手さんまで与えられて、いつも四駆の大きな自動車で移動していたのだという。
それを聞いて私はびっくり。テンションあがって、「え~!まじで~!Hが運転手かかえてたの~?!」大声で叫ぶ。
だって、そういうキャラじゃないんだもん彼は。
彼曰く、彼はかなりハードに仕事をし、月曜から日曜日状態で激務をこなしたけど、代わりに「優雅な生活だった。。。」思い出す彼。「方や今はトゥールに一人で、しかも小さなアパートに一人だよ。。。」と笑う。

確かに25歳前後だった当時とは違い、今私たちは30代まっさかりのお年頃。
周囲は子供誕生にわいていたり、結婚にわいていたりと賑やか。
そんななかHと私はセリバテール(一人身のこと)で、「あれ?おっかしいな~、うちらだけセリバテールじゃん。」と笑い合う。

6年という時が流れると、確かに変化がある。
人と出会って、人と別れて、、、という流れがあって当たり前。
でも私とHは、そういう人の流れの中、こうして時間がたってもコンタクトがとれておしゃべりしあえる仲でいることがうれしく思えた今日。私は常日頃、「男女に友情はない派」ですが、この時間と距離もはさんだ超マイペース交流は今後も続いていくかと思います。
ああ、思いっきり日本の居酒屋に行きたくなりました。おいしいもの食べて、飲んで、しゃべって。。。

再会することを約束し、Hとの電話を切りました。

不思議なもので、私は2003年にタイムスリップしています。
フランスを異常な猛暑がおそった夏のことです。
そしてあの夏から起きた出来事を思い返しました。うそみたいですが、確かにあれから6年が経っています。私はいろんな人に出会い、何度か引っ越しをし、車も替え、仕事で初のアメリカ大陸にも行き、いろいろなピンチも体験しましたが、今日もこうしてモンペリエにいます。
その時その時で悲しかったことくやしかったこともあったのに、今思い返してみれば何一つ後悔することはありません。物事はなるようになっている、、、とほんと思うんですね。そう思えるのはラッキーなことです。
「時」を感じて感慨にふける夜です。。。

2009年9月13日日曜日

旅の醍醐味 : おじいさんの教え

この夏のイタリア旅行の記録の続きです。

旅の3日目。
16時55分トリノ発のユーロスター・シティ(イタリアの新幹線のような電車)にのり、ミラノ乗り換えでヴェネチアに向かいました。



トリノ―ミラノ間は一時間弱であっという間。
ミラノでの乗り継ぎのタイミングも良く、すぐにヴェネチア行きの電車を探しました。
駅のエントランスの出発案内表示では、きちんと電車の番号とホームを確認したものの、いざ向かったホームに止まってる電車には、行先表示が出ていない。とりあえず自分の席がある車両まではいったけれど、電車の準備がまだできていないのか、やっぱり行先表示がでていませんでした。そのため、すぐそばでタバコを吸っていたおじいさんに、「ヴェネツィア行きですよね?」と念のため確認。おじいさんが「うん、そうだよ。」というから、小さいけれどしっかり重たいスーツケースを引きずり上げるようにしながらトラップを上がりました。で、いざ車内の客室に入ろうとすると、自動ドアだろうに、扉がひらかない。おかしいな~と思って手でドアをひいてみると重々しげに一応ひらいた。でもやっぱり自動扉だよな~と思いながら中に入ってみると、むぉ~んとした空気。そう、冷房がまるで効いていなくて閉めっぱなしの車内はまるでサウナ状態。

とても耐えられる温度じゃないし換気もゼロだからいや~な空気。これはおかしいと思って、結局また電車から外に出ました。荷物をかかえておっちらと降りてくる私をみて、さっきのタバコを吸ってたおじいさんが、「どうしたんだい?」とでもいう顔でこっちをみて、「出発までまだ時間があるから大丈夫だよ。」と言ってきました。
「それはそうなんだけど、なんかこの車両おかしいです。。。」と言いたかったけど、おじいさんと何語で話したらいいのかわからないからそのまま。

おじいさんはのんびりタバコをふかしていて、私は結局もう一つ前の車両まで進んでいき、反対側の入り口から同じ車両に入ろうとしたけど、やっぱりドアが自動では開かない。しかもあいかわらずの密室。。。隣の車両の様子はどうかと思ってのぞきにいくと、冷房もがんがんきいていて、乗客もけっこういてみなさん快適そう。
しばらくの間、車両の間の通路で待ってみたけど、私の席がある車両は出発時刻が近づいてきても誰もいないし、あいかわらずサウナ状態のまま。

もうよくわからないけど、とにかく息苦しいほどの異常な室温なので、黙って勝手に隣の車両に乗り込んで、空席に座りました。

ほどなくして電車が動き出す。

そして5分ほどしたら、さっきのタバコをすってたおじいさんが真っ赤な顔して荷物とともに現れて、通路をはさんで私の隣に座りました。そこでお互い目があって、おじいさんが「ひどいねあれは、もうサウナだよ。」と言うから、私も「そうでしょー。だから勝手にこっちに来ちゃいました。」と答える。

まあそこからというもの、このおじいさんは何かと私の方を見ているし、おしゃべりしたげなんだけど、私はあまり気も乗らなくて、フレンドリーそうに見えて実はフレンドリーでない私の性格のため、気がついてないふりをしてぼ~っと外をの景色を見ておりました。

電車はかなりのスピードで長距離を走っていきます。
ブレーシャBrescia に停車してから湖の近くの駅を通り、ヴェネツィアを目指します。

すると突然、黒人男性が荒々しく車両に入ってきたかと思うと、私の前の席の頭上の棚に荷物をほおりあげ、そのまま座ることもなくまた車両から出て行ったんです。

突飛な行動に私は驚き、数分たってもこの男性が戻ってこないことが気になりだしました。

「もしかして、これがよく言う『車内の不審者の不審な荷物』というやつなのでは?!」と思ったわけです。おかげで次第に私はそわそわとしてきました。10分たっても15分たっても男性が戻ってこないんです。「車掌さんに言いに行った方がいいのかな~。でも心配しすぎかな~。あと1分したら戻ってくるのかなー。でもここで見逃して爆発したらどうしよう。うー。」とどんどん気になっていき、前や後ろをちらちらと見て落ち着かない状態になった私を、今度はとなりのおじいさんが気にし始め、「次の駅が〇〇でまだ何十分あるし、ベネツィアまではまだ〇〇、◇◇、△△に止まるよ。」と言ってくれました。私がベネツィアがもうすぐかと思ってそわそわしてると思ってくれたんですね。そのため私も「いや、違うんです。さっき黒人男性が荷物おいてったまま戻ってこないでしょう。だから変だなーと思って、、、」と説明しました。
するとおじいさんは笑って、「大丈夫だよ~。爆弾が爆発するってか?駅でも空港でも電車でも爆弾を心配してたらやってられないよ~。わっはっは!」と言う。

でもこのときの私はかなりマジで心配し始めてたので、おじいさんののん気さがカチンとくるほどでした。「そんなこと言って、ほんとにこれが不審物だったらどうすんのさ。」と思ってまだ一人心配を続けていました。すると、だいぶたったころにさっきの黒人男性が戻ってきました。どうやらトイレに行っていた感じ。それを見ておじいさんが「ほらね。」と言わん顔をし、私も「はい、おそれいりました。」という顔で返しました。

そこで私もちょっとうちとけたのか、自然とおしゃべりがはじまりました。

「君は日本人?中国人?」
「僕も日本には行ったことがある。日本人の仕事への取り組みはパーフェクトだね。」
「フランスのどこに住んでるんだい?」
などと質問がはじまり、こっちもおじいさんが世界中を旅している様子なので、「いつも仕事で旅行なんですか?」とか質問を始めました。

で話していると、このおじいさんがおもしろい人物かも、、、と思いだした私。おじいさんが何者かということに興味を持ち始めました。

彼は仕事で世界中を飛び回っている。ヨーロッパ各国はもちろん、日本、アメリカ、南米も、ロシアも東ヨーロッパも、文字通り世界中を旅している。そして仕事は航空会社関連という。どうやらおじいさんの会社っぽい。ヴェネチアの中でもリゾートで有名なリド島に家をもち、そのすぐ近くには経営する小さなホテルがあるという。パリにとっても小さなアパートがあり、アメリカ大陸のどこかしらの街にもとっても小さなアパートがあり、、、、、etc。おじいさんは「小さな」と付け加えるけど、でも普通の人ではないのは明らか。
常に旅をしている様子で、この日も、一晩だけリドの自分の家に寝て、明日はまた出かけ、数日後からは東ヨーロッパに出かけるという。
おじいさんはドイツ系イタリア人家庭に生まれたという。
私がピアノ弾きだというと、音楽が好きだという。

だからイタリア人でピアノ弾きといえば、私が大フィーバーしているチッコリーニと思い、チッコリーニのことを話題に出してみると、

「あ~、知ってるよ。昔彼がコンビ組んでたフルーティストがいてねえ、その彼と僕は親しかったんだ。で、その縁で、チッコリーニと二人してうちに食べに来たことがあるよ。」という。

わぉ~!チッコーリニおじいちゃんが家に食事に来たですと?!

おじいさんは何者?
おじいさん、もしかしてセレブ?
おじいさん、ひょっとして大金持ち?

でも、彼の身なりは恰好は、いたって普通のおじいさん。お腹がちょっと出ててメガネをかけてて、普通の服。そして私たちが座っている車両は2等車。

でもおしゃべりをしていて、おじいさんはおもしろい人物だと実感してきました。なんでかというと、彼は本当に世界を見てきた人だということがわかるからです。

おじいさんは先進国だけでなくて、ユーゴスラビアとか、社会状況がまだ厳しい国にも行っています。

そんなおじいさんが世界というものを、人間というものを語った語録 :


「国やら政府やら宗教やらいろいろあるけれど、しょせんは一人一人の人間の問題だ。」

「物事はいたってシンプルなのに人間がそれを複雑におかしくさせてるだけ。」

「言葉や文化が違っても、現地へ行って現地の人々と接すれば、コミュニケーションがとれてわかりあえるもんだ。」

「外国語なんて勉強すべきもんじゃない。現地へ行けばいいだけ。」


フレーズとしては同じ考えを持つ人はたくさんいるだろうけれど、おじいさんは実経験からきているのがよくわかる、言葉が身となり血となり肉となっていて、そのことが強く印象に残りました。

「世界を知るおじいさん」という感じですね。

今思い出せば、おじいさんと何語でおしゃべりをしたのかあまり覚えていない、、、。多分彼はイタリア語でしゃべって、こっちはフランス語でしゃべってたのかな。

私が降りるのはヴェネチア本土の方のメストレ駅。おじいさんは終点ヴェネチアの島の本島サンタルチア駅までいきます。

おしゃべりしていると時間はあっというまに過ぎるもんです。パドヴァPadovaに電車が止まると、パドヴァの街の見どころなんかも教えてくれました。
メストレ駅到着を前にして、21時頃。外はもう暗くなってきていました。荷物自体は小さいスーツケースだけの私でしたが、おじいさんが私の荷物を持ってトラップまで見送りについて来てくれました。

車両間の通路でもおしゃべりは続き、こんなinterestingなおじいさんとおしゃべりしていてうれしくなった私は、せっかくの出会いと思い出にと思って、おじいさんの名前とリド島のホテルの名前をおしえてもらいました。
「ちっちゃなちっちゃなホテルだよ。」とおじいちゃんは笑っていましたが、ヴェネチアのリゾート地でリド島ですからね。
いつかこのホテルに泊まりにいったら、もしかして再会することがあるかも、、、です。

メストレ駅のホームには、去年のラジオフランスフェスティバルで出会った日本人コレペティさんのTさんとその彼氏が出迎えに来てくれていました。実はこの夜から数日間は、Tさんのおうちにお邪魔することになってたんです。

電車から降りる前からTさんは電車の中にいる私を見つけてくれ、再会するなり手が悪い私を気遣って心配してくれたんですが、私のうしろからおじいさんが荷物をもって降りてきたからTさんもびっくり。

おじいさんはサンタルチアまで行くので、荷物をおろして電車の乗り込み、「ありがとうございました!お元気で!」、「ヴェネツィアで楽しむんだよ。よい旅行を!」と手を振ってお別れしました。

大金持ちのイタリア人のおじいさん、と言うとふと思い出したのが、日本人女性Aさんのストーリー。日本で離婚を経験して、ふらりと旅に出てベネチアの駅で一人こしかけぼーっとしていたら、ひとりのおじいさんが話しかけてきて、、、、。という話。まあ人づての又聞きですが、その二人は結婚をして、おじいさんは本当の億万長者で、結婚後まもなく亡くなり、すべての遺産をこのAさんに残し、Aさんは若い音楽家を援助する活動をしている、、、ということは本当のようで。

私とおしゃべりしたおじいさんも似たようなパターンじゃん!とか思って、こういう出会い、きっかけで10日後には結婚とかするケースもあるんだなあと考えると、私には何がどう転がってもありえない展開ですが、おもしろいもんだと思いました。

おじいさんと接して感じたことは、やっぱりいろんな国を訪ねて見てきた人には、自分の生まれた国、街にずっといる人にはとても得ることのできないものがあるなあということ。しかもおじいさんの年だと、戦争時、戦後の世界も知ってるわけです。社会や世界を見る目、世界に対するビジョンが器の大きなものになりますよね。
私もたとえおじいさんと同じ考え、主張をもっているとしても、説得力のレベルが違う。まだまだひよっこですね。

みんながこうして異国を知り、異文化知り、互いに交流ができたら、世界はあっというまに平和になるだろうに、、、と思った夜でした。

そしてこういうふれあいこそが旅の醍醐味。もし車で旅に出ていたら、こういうふれあいはもてなかったでしょうから、電車の旅にして大正解。

私も世界市民でありたいと思います。

2009年9月9日水曜日

やっとのことで First Lesson !

最近、なにかとイタリア語のことばかり言ってましたが、やっぱり外国語として一番必要であり、便利なのは英語。

モンペリエに来てからずっと、フランス語の上達のためになることを最優先で考えてきましたが、やっぱり英語は世界で通用する一番の言語。
親の教育方針というか希望もあって、私はかなり小さい頃から英語には親しんで触れてきたので、発音は相変わらず適当だったけど、中学、高校の英語教育プラスアルファ的なものもあって、旅に出た時に必要最低限はまかなえていました。英語をマスターしてたり、得意な人に比べたら全然だめで、思いっきり関西弁発音だけど、自分では旅行会話ではそんなに困らないという感じでした。

しかし、ここモンペリエでフランス語に専念して数年が過ぎたために、低下してしまった英語力というのはみるもあわれなもの。
衝撃を受けたのは数年前、「星」=「star」すら出てこなかったとき。「エトワールは英語でなんだったっけ?」という疑問に頭を悩ませたんですね、私。「スター」なんて、もう日本語化しているというのに、、、。

こんなことでは「昔はフランス語よりも英語の方が話せたけど、、、」なんて言い訳すらもうできない。なんとかしなければ!という思いが芽生えました。

でも、フランス語を上達させるということが優先であることはずっと変わらない。一つの外国語を使って生活している中で、その言語はますます磨いていかなくてはいけなくて、、、という環境の中でさらに二つ目の外国語を勉強することはそう簡単ではありません。
特に英語とフランス語では綴りは似てて発音が違う単語とかが多くて、こんがらがってしまうんですね。

そもそも外国語習得というのは、進めば進むほどまだ足りないところなどが目につき、目標は高くなるものだと思います。要するにゴールがないのです。外国語習得のゴールを自分の母国語を操るレベルと同じところに置いてしまっては、ほんとキリがないのです。
そこである日私は考えを変えました。「しょせん、フランス人と同じようにはしゃべれなくて当たり前なんだ。」と。

私は幸いフランス人社会の中に入ることができて、日々接するのはフランス人だけという環境に身をおくことができました。おかげで私のフランス語も上達してきたわけですが、フランス人としゃべってると自分のフランス語のレベルが超低く感じてしまうわけです。そうして凹むこともよくありました。
でも「フランス語のレベル」というのを、「外国人が話すフランス語」という見方でレベルがはかれることに気がついたわけです。そうなると私は外国人。「外国人のわりに、まあ結構操れてるんじゃない?」と思えばいいんだと気がついたわけです。
まだまだ完璧には程遠いレベルだけど、初めてフランス語を習った日やモンペリエに来た日のレベルと比べたら、ずっとかずっとかましになってるはず。

そう思えるようになったのが、フランスに来て7年目のことでした。

時を同じくして、オペラ座で仕事をする機会が増えていき、インターナショナルな顔ぶれとコミュニケーションをとらなくてはいけないことがありました。
オペラの世界では、皆、フランス語か、ドイツ語か、イタリア語ができるのが普通です。でもやっぱり中には、しっかり発音できて歌えるけど会話はできない歌手とかがいるもんです。
一年半前に出会ったイギリス人歌手がそうでした。すると、スタッフは英語で彼とコミュニケーションをとらなくてはいけません。

ここでちょっと話の脱線。
フランス人の外国語能力というのはとっても低くて有名です。よく日本人観光客が、「パリでフランス人に英語で道を尋ねても答えてくれない。」だの「フランス人はフランス語しかしゃべってくれない。」と言うのを耳にしますが、はっきり言ってそれは単に「彼らは英語がしゃべれない。」からなんです。
日本人の平均的英語能力を私は知りませんが、北欧の人やドイツ人の英語能力を皆さんはご存知でしょうか?私は24歳の時に、彼らがまるでバイリンガルであるかのように普通に英語をしゃべるという実態を目の当たりにして、ショックを受けました。「英語を上手にしゃべる。」とかいうレベルじゃないんです。本当にバイリンガルレベルなんです。
そうなるように教育システムが整えられているんでしょうね。あれにはほんと参りました。衝撃を受けたし、感心します。

で、方やフランス人の英語レベルは、はっきりいって低いんです!

どんだけ低いかって、「ぷぷぷ。あんた私と同じレベルやん!」とからかえてしまうほどのレベルなんです。発音だって関西弁発音の私と同じか、さらにはもっとひどい!
そこで「他人のふり見て我がふりなおせ。」じゃないけど、「私ももうちょっと英語をましにしたいな~。」と強く思うようになったのでした。
特に私の場合、音楽をしてきたおかげでやっぱり耳だけは抜群によく、フランス語にしろ英語にしろ、相手がナチュラルスピードで話しても、かなりの部分が聞き取れるんです。そのため、私が的確にあいづちをうったり反応をかえすのを見ると、相手は私はちゃんと理解してると判断してくれるんですね。で、悲しいかな、いざ私が話し出すとそれはとってもスローリーで情けない英語になるわけです。
だから私のヒアリング力とスピーキング力のレベルの格差をなくしたい!という強い欲求がうまれました。

以来、「やっぱり英語をもう一度勉強し直してとりもどさな~、、、」と周囲の人にぼやくようになって早一年半。

このまま「言ってるだけで終わり?」のパターンに陥るのかと思いきや、ついに、英語力回復、英語ブラッシュアップのために行動をおこしました。

実は、前々から私には英語ブラッシュアップの方法、計画があったんです。

というのは、私にはアメリカ人とフランス人のハーフのリザという友人がいます。彼女のママがカリフォルニア出身のアメリカ人なのですが、彼女は大の音楽好き。長年ピアノを習い、ギターもしたことがって、今はチェロに夢中になっている彼女。数年前に退職して、今は趣味の充実に生きるといった感じで音楽三昧。そんな彼女となら、ピアノレッスンと英語のレッスンの交換レッスン、あるいは私がピアノ伴奏でチェロの練習相手をすることもできる。リザもこれなら彼女も大喜びでOKするはずだと言ってました。
だから要は話をつめて実行するだけだったんですね。

私が重~い腰をあげて、彼女と実際にこの話をしてまとめたのがこの7月のこと。
そしてイタリア旅行でも、やっぱり英語が国際公用語だというのを痛感して帰ってきて、バカンス明けをまたずして彼女に電話。先週、交換レッスンの第一回目をしたんです。

私が生い立ちや身の上についてちょっとしゃべり、彼女が間違いを直したり、ワンポイントアドバイスをくれたりして50分。
何がいいって、彼女はフランスに来てから高校の英語の先生をしてたんです。だからプロ。
私の方もピアノのレッスンとチェロの伴奏をしてあげて50分ほど。私だって一応プロ。
だからお互いにとても満足のいく交換レッスンができました。

やっぱりネイティブの人と話すというのはいいですね。
フランス人が日本語を習い始めるといかいうのとは違って、ひと通りの文法は習ってきたわけで、あとは忘れてしまっていることを思いだしたりしながら、ひたすら実践で慣れていくのみ。
二週間に一回とかのペースでしっかりとやっていけそうです。

私が自分で家でできることとして彼女が勧めてくれたのはやっぱり映画を英語で見ること。しかも英語を聴きながら英語の字幕をみて確かめるといいと言ってくれました。

実は映画好きの私は、DVDを見るとき必ずオリジナル言語で聴き、フランス語の勉強のためにフランス語字幕をつけて見ていたんです。
が、これを機に、英語の映画は字幕も英語にすることにしました。こうすることで100%英語の世界に入れますもんね。
私が今までしてたことは、やっぱりフランス語上達のためにしかなっていなかった。

今後はフランス映画はフランス語字幕で、英語の映画は英語字幕で見ようと思います。

しようしようと思っていたことをようやく実行に移せて、ちょっとすっきりした私です。

次はイタリア語もしっかり実行あるのみ!

2009年9月6日日曜日

魔法の笛

魔法の笛というのはモーツァルトのオペラ「魔笛」のこと。

モンペリエのオペラ座の新シーズン2009-2010は「魔笛」で開幕するんです。そのため8月24日から稽古が開始。オペラ座のスタッフも夏のバカンスを終えて再集結した感じ。シーズン単位で働く彼らのリズムはまるで学校に行く子供たちと同じ。だからバカンス明けの再会はいつも賑やかで楽しいものです。
みんなが互いに「久し振り!」、「元気だった?」、「バカンスはどうだった?」と声をかけあいます。

で、9月にも入り、ただいま演出稽古のまっ最中です。このプロダクションはオペラ座コメディではなくて、CORUMの大ホールで行われます。

私のブログでおなじみのジャン=ポール・スカルピタ氏の演出による舞台ですが、実は2年前に同じものをモンペリエでしています。今回はパリのシャトレ劇場で10月頭に公演が決まったことを受けて、二年前の舞台にちょっと変更や手直しを加え、キャストにも多少の変更が入っての再演ということになりました。

演出が次期オペラ座ディレクター就任が決まっているスカルピタ氏で、指揮は今シーズンからモンペリエのオーケストラの音楽監督に就任するアメリカ人で世界的に有名な指揮者ローランス・フォスター氏。新シーズンの幕開けとシャトレ劇場での公演とあって、気合いの入った華やかな顔ぶれです。歌手たちもさまざまな国籍の歌手が勢ぞろいで、とても質の高い舞台が期待されます。
この写真は2007年の時の公式写真。


私は今回何をしているかというと、「魔笛」に出てくる三人の少年(クナーベン)役が、オペラjrの子供たちかの中から選ばれたソリストなので、ヴァレリーと一緒に、クナーベンの準備・練習に専念しています。

オペラの中には児童合唱が必要なオペラも結構ありますが、「魔笛」のこのクナーベン役は、合唱ではなくてれっきとしたソリスト。昔は大人のプロの歌手が務めることが主流だった時代もあるほどで(もちろん現在でもプロの大人が歌うことも多い。)、3人が3パートで歌う難易度も高い、重要な役です。

今回はパリとモンペリエで計6公演があるので、3人ずつのグループを二つ作り、毎晩交替で出演させることになりました。もしも病気やなにかがあったときに別のグループの子が代わりに歌えるという保険つきで。

この6人を選ぶために、オペラjrでは5月ごろに12人くらいをピックアップして特別練習をはじめ、バカンス前に7人まで絞り、最後の一人は残念ながら8月末にはずされました。
こういう選考って簡単じゃないんですよね。声楽的要素はもちろんですが、演技的能力もなければいけなし、さらには2000人のお客さんを前にした大舞台で力を発揮できる性格が不可欠。もちろんプロではないうえにまだまだ子供ですから、何が起きるかわからないということだって大前提だけれど、ハードな練習にも耐えて、大舞台で力を発揮してくれるだろうと私たちが信頼できる子でなければいけないわけです。
12人から最終の6人に絞る過程で、涙あり悔しさありのドラマがあったのはいうまでもありません。毎度のことですが、親がからんできたりするのが一番厄介だったりする、、、。ま、この話はまたいずれ。。。

8月24日に稽古がはじまって、昨日で無事に二週間の稽古が終ったところです。実は指揮者のフォスターさんは超有名指揮者ということだけあって、過密スケジュールの持ち主。世界のあちこちで指揮をふってらっしゃいますからね。そのためにマエストロのモンペリエ入りは9月1日でした。

ではそれまでどうしていたのか?

実はそういうときに必要とされる人がいます。それは副指揮者と呼ばれる人。フランスではアシスタント・シェフといいますが、コンサート本番で指揮をする指揮者が来るまでに練習をおこなってまとめておく、あるいは指揮者が来てからもいろいろとサポートする人です。

どんなオーケストラにもこの役目をもった人が常時いるわけですが、実はモンペリエ・オーケストラには昨シーズンから、日本人女性のアシスタント・シェフがいるのです。それは阿部加奈子さん。今回の「魔笛」でも彼女がしっかりと練習をまとめてきました。彼女のことを絶対に近々ブログで紹介するぞ~と思っているのでお楽しみに。

さて、ここで「魔笛」知らない人のためにざーっと「魔笛」豆知識を。

冒頭でモーツァルトのオペラとはいいましたが、厳密にはドイツ語でジングシュピールと呼ばれる歌芝居です。歌われる部分、音楽にのってほとんど話すような部分であるレチタティーボに加えて、実際に話される部分があるんです。

モーツァルトとというとフリーメンソンという団体とのつながりが有名ですが、なかでもこの「魔笛」はフリーメンソンがらみの逸話にことかきません。フリーメンソンでは「3」という数がとても重要なのですが、「魔笛」にはいろいろな「3」がでてきます。子供たちクナーベンだって3人の男の子なわけでして。。。

あらすじはというと、タミーノという名のある国の王子がパミーナというお姫様を救い出し、二人はめでたく結ばれる、、、というもの。

パミーナの母である夜の女王と、彼女いわく悪魔のような高僧ザラストロという二人の登場人物がとても大事。そもそも「愛するわが娘がザラストロに連れ去られてしまった。どうか娘を助け出して来てほしい。」とタミーノに頼んだのは夜の女王自身。タミーノはその話をうのみにして、しかも美しいパミーナの肖像画をみて一目ぼれし、必ず助け出してみせると誓います。そこで夜の女王の3人の侍女から与えられるのが魔法の笛。これが身を助けてくれるというのです。
もう一人の重要人物がパパゲーノ。彼は鳥を捕まえては夜の女王に献上していました。おしゃべりで我慢や努力が苦手というキャラクターの彼は、成り行きでタミーノの冒険に同行することになります。
タミーノはザラストロの神殿に忍び込みます。パパゲーノとははぐれ、そこで一人ザラストロ本人と遭遇し、実は「悪」は夜の女王であると知ります。ザラストロは賢者であり、世界を手中におさめようとする夜の女王の欲望と邪心からパミーナを守ろうとしたというのです。
パパゲーノはというと、ザラストロの家来でありながらパミーナに言いよるモノスタトスと出くわし、お互いが相手の姿を見てびっくりして逃だします。でもパパゲーノはパミーナのところに引き返し、タミーノと二人で助けにきたことを告げます。結局タミーノはモノスタトスにつかまりますが、逆にザラストロはモノスタトスを罰し、逃げ出したパミーナのことも許し、タミーノとパミーナはめでたく対面。
そこでザラストロがタミーナに試練の儀式を提案し、見事うちかったらパミーナと一緒になれるといいます。タミーノは試練の儀式を受けると決め、その資格もあることを認められます。一方、めんどうくさいことはいやだというパパゲーノにも、熱望しているパートナーを得るために試練の儀式がかされました。

オペラの第二幕はこの試練の儀式が展開します。夜の女王も娘に復讐をしろと命じます。タミーノ、パミーナ、そしてパパゲーノがピンチを迎えるたびに現れてアドバイスを与えるのが3人の男の子クナーベンです。彼らはタミーノに魔法の笛を使えとアドバイスし、パパゲーノには魔法の鈴を与えます。こうして彼らは試練を乗り越え、ザラストロはタミーノを称えます。
計画がまるで狂ってしまった夜の女王は、三人の侍女、そして女王の手下となったモノスタトスがザラストロの神殿に乗り込んできますが、ザラストロにはかなわず闇の中に落とされます。
オペラの最後はタミーノとパミーナの若いカップルが結ばれ、またパパゲーノとその彼女パパゲーナがたくさんの子供に恵まれ、皆でザラストロそして太陽神イシスとオシリスを讃えて幕が下ろされます。

こんな感じのストーリーですが、オペラの台本としてはかなりしっちゃかめっちゃか。なんせ「善」と「悪」が入れ替わるんですから。
モーツァルトにこの作品を依頼したのは、当時ヨーロッパ中を巡業する劇団のオーナーであり、本人自身役者であり歌手であったシカネーダー。モーツァルトとは以前からの知り合いで、仕事がなくなって苦境にいたモーツァルトをサポートしたりもした人です。「魔笛」の台本はこのシカネーダーが自分の一座のために書き下ろしたといわれていますが、いろいろとモデルになったといわれる作品も多く、また他にも台本を書いたのは自分だと主張する人もいたりで、真相はあまり定かではないようです。台本がしっちゃかめっちゃかなのは、計算されてのことなのか、それとも既存の作品のつぎはぎだからなのか、、、。
いずれにしても1791年に行われた初演は大成功。モーツァルトはこの年の12月5日に亡くなってしまい、彼の最後のオペラとなりました。

「魔笛」というオペラは世界中の舞台で公演されている人気オペラですが、やっぱり演出によって全く違う舞台ができるというのがおもしろいところ。
スカルピタ氏の演出はいつもながらイマジネーションとファンタジーに富んでいてとてもきれいです。
この舞台で彼のオリジナルなイマジネーションとファンタジーを象徴しているのが次の二つでしょう。

まずはクナーベンたちが空飛ぶベンチに乗って現れること。




ワイヤーでつられた黄色のベンチ。上下にも左右にも移動ができるんです。

こどもたちはベルトとロープで一応サポートされていますが、それでも空飛ぶベンチに座って歌うというのはなかなかできる経験じゃない。

そしてそれを操るのはマシニスト、つまり大道具さんたちです。
ロープをひっぱってコントロールしてますが、大男ぞろいのマシニストたちにとってもさすがにこの作業はきついらしい。かなり険しい顔をしていつもがんばってらっしゃいます。

舞台裏でベルトをつけた子供たちが徐々に高く上がっていく様子を見ていると、まるで遊園地のジェットコースター発進前の気分です。




もう一つ、ファンタジー度100パーセントの目玉作品というのが、巨大操り人形とでもいうのでしょうか、大きな大きな金色のライオンさんです。



ザラストロの国の太陽を象徴しての役どころ。
身体を張ってこの巨大ライオンを操っているのが、マリオネット、つまり人形遣いの人。すさまじく重いだろうに、すごいな~と驚かされる。そんな彼はムキムキの筋肉マン。しかもライオンは彼が作ったのです。とてもオリジナルですね。

練習が進むにつれて、ここに衣装や照明などが加わっていくわけですが、スカルピタ・マジックができあがっていく段階を追って見れるのが私は大好きです。ちょっと特権を得てる気分になっちゃいます。

また追って「魔笛」ネタをお伝えしたいと思うのでお楽しみに。

2009年9月4日金曜日

Musée Fabre : Mucha展

モンペリエにはファーブル美術館:Musée Fabre という美術館があります。

ファーブルという名前を聞くと、日本人はファーブル昆虫記のファーブルさんを思い浮かべてしまいますが、こちらはファーブルというモンペリエにゆかりのある画家の名前を冠した美術館です。フランソワ=グザビエ・ファーブル François-Xavier Fabre(1766-1837)はフランス古典派の画家。パリやイタリアで活躍しましたが、1824年にモンペリエに移り住み、1837年に亡くなるまでこの地で暮らしました。彼はモンペリエの街に美術館が誕生する足がかりとなるようにと、自分の作品や蔵書をモンペリエの街に寄付することを提案して、1828年にその美術館がオープンしました。彼は亡くなるまで美術館館長を務め、モンペリエの美術学校の学長も務めました。モンペリエの美術界発展につくしたその功績は多大なものだと誰もが認める人でしょう。
美術館はその後発展をつげ、フランスを代表する重要なコレクションをもつ美術館となりました。そして2003年から2007年の間、美術館は一部閉鎖または完全閉鎖をして増築改築の工事をし、2007年の2月に新装オープンしました。工事が長引き、(まあフランスではいつものことですが、)モンペリエ市民もあきれかかっていたところ、この新Musée Fabreの出来栄えに皆が驚き、今ではモンペリエ市民が誇る一大美術館となったのです。

こちらがサイト  http://museefabre.montpellier-agglo.com/
以前は3000平方メートルくらいだった展示エリアが9000平方メートル以上になったんです。モンペリエの歴史的市街地区にある古い18世紀の建物がもともとの美術館だったのですが、周辺の建物も買い取り、増築されたわけです。工事を担当したのはモンペリエにある設計事務所ですが、ほんと見事な出来栄え。それぞれの建物をうまいことつなぎ合わせて、広々としたモダンな美術館となりました。
ファーブル美術館のコレクションは17世紀から19世紀の絵画がメインで、そのほかデッサン、版画、彫刻などもあります。確か去年か一昨年に、ファーブル美術館の一部が日本に公開ツアーに出ていたと思います。一番有名なのはクールベ(Gustav Courbet) の「こんにちは、クールベ先生!」と呼ばれる絵です。
モンペリエにゆかりのある画家の作品も多く、自分も知ってる場所や景色を題材にした作品を見ると親近感もわくものです。

さて、私はというと、2002年の夏にモンペリエ短期滞在したときに語学学校のみんなと見学したときっきり、この美術館に足を運んだことはありませんでした。私の家から近いし、美術館の前はしょっちゅう通るわけですが、普段あまり美術品に特別な興味をもっていないので、「さあ、今日はファーブル美術館に行こう!」と思う日がないまま今日に至ったわけです。
でも、そんな私もさすがに気になる特別展示が6月末から行われていました。それはアール・ヌヴォーのアーティスト、アルフォンス・ミューシャ Alfons Mucha (1860-1939)の作品展。チェコ出身の彼は、1900年前後のパリでポスター画家として大成功をおさめ、イラスト画家、装飾デザイナーとして世界的に人気を集めた人です。チェコでは彼の名前はムッハと発音するのですが、大成功をおさめたパリではフランス読みでミューシャ。日本ではこのフランス語読みに適応してミューシャとして知られています。
6月20日から9月20日の3ヶ月間に渡る特別展示。
街のあちこちでこのポスターが見られました。
またはこのチラシも。
毎度のように「行きたいな~。」とは思いながらも、もう公開終了が近づいてきてました。
そこへ、7月に出会ったとあるマダムが、ファーブル美術館で行われるミューシャの作品をテーマにした講演会に行かないかと誘ってくれたのです。残念ながらその日は都合がつかずに行けないけれど、ミューシャ展にはいきたいと思ってる。と伝えると、彼女はファーブル美術館の定期会員で、水曜日の夜なら友人を招待する権利があるからどうだと声をかけてくれたんです。
ファーブル美術館は月曜定休で毎日オープンしてますが、水曜日は夜の開館で21時までやってます。で、この前の水曜日に私も仕事後時間が空いていたので、喜んで招待を受けることにしました。
このマダムは、新装オープン後来るのが初めてという私に、まずは常設展を足早に案内してくれました。そこで私もこの新しい美術館にびっくりしたわけです。館内は写真撮影が禁止されていて、監視員もすごい数いたので、さすがの私もこっそり撮りができなかったのでお見せできませんが、外から見るよりもずっとか広い内部。中庭とか吹き抜け部分とか、すべてがとてもきれいで、設計、建築の観点からしてもおもしろいと思います。
常設展を絵をじっくり見ることなく足早に一回りするだけで軽く1時間かかってしまいました。
ミューシャ展はじっくり見たいという私のために、そこでマダムとはお別れして、私は19時半から20時半まで、ゆっくりとミューシャ展を見て回りました。
平日の夜だというのに、かなりの数の見学者がいたことにも驚きましたが、それだけ人を集める特別展だということでしょう。
女性と花、星をあしらった独特の絵、そして曲線をふんだんに使った装飾は、それまでの絵画の世界をがらっと変えるセンセーショナルなものでした。日本にも彼の絵が好きな人がたくさんいると思いますが、私は個人的に現在のマンガ文化、アニメ文化において、彼の絵から受けた影響ってすごいのではないかと思います。それくらい彼の作品は現代的で驚かされます。
彼のポスター、挿絵、イラスト、デッサンがたくさん公開されていて、アクセサリーや家具も一部ありましたが、ハイライトが二つ。
まず、1900年のパリ万博で、彼がボスニア・ヘルツェゴビナ館のデザインを担当したのですが、その時の部屋が彼の巨大な絵とともに再現されていたんです。4方の壁一面を使って、彼独自のイメージでスラブ民族の歴史を描き表してあります。
もう一つは展示の最後にあった「スラブ叙事詩」。1910年に祖国に帰ったミューシャが数年がかりで取り組んだ巨大プロジェクト。そのうちの二枚、5平方メートルくらいなんですが、壁一面に展示されていました。
彼の愛国心を前にほんと圧倒されました。
私は彼の描く女性像よりも、周辺の装飾に見とれてしまいました。花やら曲線やらでフレームを描くのが彼のスタイルなわけですが、彼がイラストを担当した小説などが展示されていて、思わずその小説を読んでみたくなる、なんともファンタジックできれいなものでした。
祖国を愛し、祖国のために晩年をささげようとしたミューシャでしたが、そのためにナチスのチェコ侵略のさいにはまっさきに逮捕されて収容されてしまいました。開放はされたものの、収容所での体験は彼を弱らせ、開放された年内にミューシャは79歳で亡くなりました。
言葉を失いますね、こういう歴史上のできごとは。。。
館内は写真禁止でしたが、後で絵ハガキを何枚かかったので、それでちょっと彼の作品をご紹介。
まず、彼がパリデビューを果たすきっかけとなったのがこの絵。
大女優サラ・ベルナールの舞台公演の広告ポスターを担当することになった彼の第一作目が「ギスモンダ」。
サラ・ベルナールは彼の作品を大変気に入り、ポスター、衣裳などすべてをミューシャに託すという依頼をし、二人は以後6年間に渡る長期契約を結んだのでした。
今回の作品展のポスターにも使われたのは1911年の作品「Princess Hyacinth」(ヒヤシンスの姫)。
こちらは1898年の作品で「Les Arts」(芸術)。「ダンス」、「絵画」、「詩」、そして「音楽」の4つのテーマで描かれた4作品のシリーズ。この絵は「音楽」です。

ファーブル美術館の内部にはモンペリエの老舗本屋ソランプスSauramps が美術関係限定の店舗を出していて、ミューシャ関連のグッズがたくさんそろえられていました。

すっかり彼の作品に魅了された私はハガキを数枚買い、今回の展示のミニガイドまで買ってしまいました。

この前のニースのシャガール美術館といい、やっぱり自分の好きなスタイルの芸術作品を生でみるというのは、何か心に栄養をもらうような素敵なことですね。
長年美術館には行ってなかったこともあってか、シャガールとミューシャ展は心に大ヒット。

行きたいとは思いながらも行かずじまいのことがよくある私なので、今回は背中を押してくれたマダムに感謝。仕事後の夜に美術館に行くだなんて、こうでもなければありませんから。
私が美術館を出たのは閉館間近の21時前。

もう外は暗くなってしまっていましたが、平日の夜に素敵な美術作品を見て、しかも家は徒歩10分というところ。「なんてリッチな生活だろう!」と我ながら実感。


モンペリエ近郊にお住まいの方にはおススメです。

2009年9月2日水曜日

旅の記録 : Torino トリノ

トリノのことをフランス人はチュラン Turin と発音する。

トリノはイタリア第四の都市で、フランスとスイスに接するピエモンテ州の州都。イタリアの大手自動車メーカFIATフィアットの本拠地であったりして、国内ではミラノにつぐ産業工業都市。この地方は16世紀にはフランスに支配され、18世紀前後はサルデーニャ王国の首都となり、イタリア統一後の1861年から1865年の間はトリノがイタリアの首都でした。

私の目からすればイタリアっぽくなく、フランスやオーストリアの文化が混ざった感じの街だなーと思いました。昔王家が住んでいた町なので宮殿も多く、とにかく「清潔感」の意味できれいな街です。

私がこの街に立ち寄ろうと思ったのは、多少涼しいだろうと期待したのと、オリンピックも行われたこの街を一度訪れてみて損はないと思ったからです。

到着した日はあいにくの雨でしたが、翌日は気持ちのいい青空。
ホテルで朝食をすましてから、早速街歩きに出ました。

一日目に街の中心部は一応一周したので、二日目に私が目指したのは、そう、いつものように街で一番高いところ。

トリノには街のシンボルとなるタワーがありますが、そこに上るよりも、川の反対岸の丘の上にある教会を訪ねて丘の上からトリノの街を見下ろそう作戦に出ました。




トリノの街をポー川が流れます。


小さなカップッチーニ山があって、その頂上に教会モンテ・デイ・カップチーニがあります。


で、教会前からトリノの街が一望できるんです。



遠くにはアルプス山脈が見えて、雪の白さもはっきり見えますね。
しかも例のシンボルタワー、モーレ・アントネッリアーナよりもこっちの方が高そう。ふふふ。大正解で大満足。


丘をおりてグラン・マードレ広場にむかい、グラン・マードレ教会を見学。



こちらの教会からは川のむこうのヴィットリオ・ヴェネト広場が見えます。



橋をわたって街の中心部に向かうことにしました。
河岸の向こうの方にはヴァレンチノ宮殿が見えています。



この宮殿は、前日の夕方、雨上がりの中を散歩して周囲をぐるっと歩いてきました。



さて、橋をわたると大きなヴィットリオ・ヴェネト広場。



ここから街の中心地カステロ広場までまっすぐ通っている道がポー通り。

そのすぐわきにはシンボルタワー、モーレ・アントネッリアーナがあるんです。エレベーターで塔の先のところまであがれるそうです。下の建物は映画博物館。



カステロ広場につくと、右手にレッジオ劇場があります。
18世紀に建設された2500もの客席をもつ豪華な大劇場で、ヴァーグナーの「ローエングリン」やプッチーニの「マノン・レスコー」などが世界初演された由緒ある劇場なのですが、不幸にも1936年に焼失してしまいました。現在あるのは1973年に再建してオープンした新しい劇場で、外部こそクラシックですが、これはファサードだけで、実は現代建築のモダンな劇場となっています。


このレッジオ劇場からはマダ―マ宮殿の後ろ姿が見えるのですが、広場をぐるっと回ると姿を現す宮殿のファサード。


トリノにはいくつもの宮殿がありますが、このマダーマ宮殿 Palazzo Madama は中でも重要な宮殿の一つ。現在内部は古美術館となって、中世から19世紀の美術品とともに内部が公開されています。

正面入り口をはいってからの大階段の広間は入場無料で自由に見学ができます。


この宮殿のユニークなところは、正面のファサードだけあとで作り直されていて豪華絢爛ですが、後ろはすべて中世の古くさ~いレンガ積みの宮殿なのです。見えますか?


私は宮殿内をみるために美術館に入場することにしたのですが、なんとまたも思いがけずに入場無料の日でした。シャガール美術館につづいてなんとラッキーなこと。
しかも普通7ユーロのところがみんな無料って、トリノ市も太っ腹ですね。

さて、中に入ってみると古い古い。ローマ時代の門が中世に要塞になり、15世紀に王家の城となったという移り変わりが、建物の壁をみているとわかります。

今でも発掘が続けられているというローマ時代の壁や中世の壁跡。



中世の壁跡。


17世紀の王様の未亡人、フランスから来たマリー・クリスティーヌの住まいとなり、彼女がマダ―マ・レアーレ(王家の令夫人)と呼ばれていたので、宮殿もマダ―マ宮殿と呼ばれるようになったのだとか。

彼女が生活していた部屋などは、いたってフランス風で優雅。



フランスにいる気分になってしまいます。



イタリア統一がなされてトリノが首都であった時期に上院議会がおかれていたのもこの宮殿でした。大広間の天井は高い高い。。。


美術館としては、絵画のほかにも王家ゆかりの品々がたくさん展示されていました。



王室の人がこれに乗っているのを想像するとなんだかかわいい。



こんな感じでマダ―マ宮殿を満喫できました。

さて、マダ―マ宮殿のすぐ隣にあるのが王宮パラッツォ・レアーレpalazzo Reale。
1660年から200年の間、サヴォイア王家の住まいだったのがこの宮殿なのです。


この宮殿は数人のグループ毎に時間が決められた見学しかできず、この日の夕方ヴェネチアに向かって電車に乗らなくてはいけない私の時間には合わなかったので見学できず。残念。。。

宮殿の中庭からはドゥオモが見えるんですが、工事中ですっぽり隠されていた。



このドゥオモ、鐘楼とクープラと並んでる姿がとてもきれい。1498年に建てられたこの教会はたくさんの観光客を集めています。なぜかというとあの有名な聖骸布があるからです。



キリストの遺体を包んでいたと言われるエジプト布で、キリストの体の跡が残っていると言われているのです。
本物はしっかり保管されていて、原寸大の写真が公開されています。まあ科学調査の結果、キリストの時代のものじゃないと言われていますが、それでも信者にとったらキリストにしか見えないこの人の姿。やっぱりもしかして、と思ってしまうんでしょうね。本物の聖骸布が一般公開される日には世界中からキリスト教信者が集まるそうです。



ここまで街の散策をし、そろそろ電車の時間を気にしなくてはいけなくなりました。ので、ホテルに戻ることに。



ローマ時代に街の基礎が出来たというトリノの街は、まるで京都の街のように、ほぼ碁盤の目状態の街づくりになっています。通りがまっすぐのびていて、町全体がきれいだけどきっちりかっちりした雰囲気をもっています。

カステロ広場からまっすぐにのびる道を見てみれば、遠くにトリノのポルタ・ヌオーヴァ駅が見えます。



駅からまっすぐのショッピングメインストリートがローマ通り。王宮と駅の真ん中ほどにあるのが、大きなサン・カルロ広場。そしてこの広場に面して双子のように対になった教会があります。


こんな風に半日+半日で街を十分に周れて、しっかりとトリノの街並みを味わいました。
とにかく優雅で清潔な感じのきれいな街です。

マクドナルドだってこんなにシックな外観。


目にとまったのが薬屋さん。フランスとは違って、なにやら古い、クラシックな店構えを保っている薬屋さんがほとんどで、もしかしたらそういう伝統なのかもしれませんね。


トリノの街を歩いていて印象に残ったのが、建物には回廊みたいに円柱のならんだ屋根つき歩道部分があることが多いということ。どこを歩いてもアーケード状態でした。たとえ小さな建物だって、ほら、ご覧の感じ。


このおかげで、一日目の雨の中の散策も、傘にわずらわされることなく歩けました。

あと、この町で印象深かったのが、道行く人みんながフランス語しゃべってるのかと思うほど、イタリア語よりもフランス語に似た言葉がよく聞こえてきました。国境が近いからみんなフランス語もしゃべれるのかと思って、ホテルのフロントで質問してみました。「トリノの人ってほとんどの人がフランス語しゃべれるんですか?」って。そしたらフランス語ではなくて、この地方の方言だという。イタリアが統一されてまだ百数年のイタリアでは、長い間、それぞれの都市が独立した都市国家でした。それぞれの都市が独特の文化をもち、それぞれの言語をもっていたのです。そしてこのトリノがあるピエモンテ州の言葉というのが、どうやらイタリア標準語よりもフランス語に近い言葉らしいのです。こうなったら方言以上のものですね。



さいごにおまけですが、あまりに久し振りで予想外だったので写真撮っちゃった店が。

我らが日本の無印良品のお店です。
フランスでもパリにはあるけれど、モンペリエなんかにはないし、うれしくなって、ついつい店に入っちゃいました。けっこう人気がありそうでしたよ。

そんなこんなでトリノ観光は終了。17時40分の電車に乗って、3度目のベネツィアに向かいました。

2009年9月1日火曜日

変化は突然に

さあ、もう9月に入りました。

フランスの学校では今日が新年度スタートの日です。2ヶ月以上の長いバカンスを終えて、子供たちもバカンスが終わってしまう名残惜しさと友達と再会するわくわく感とともに学校に向かっていきました。

さて、ここ一週間でフランスの猛暑の夏は過ぎ去り、気温がぐっと下がって秋模様になってしまいました。先週末セートに行った時は夜中の0時になってもノースリーブのキャミソールがぴったりで、暑い暑い夏の夜でしたが、ここ数日で突然、20時を過ぎると涼しくなり、21時過ぎごろには涼しいを通り越して肌寒く、カーディガンなどをはおらないとカフェのテラスなんかでのんびりしゃべってられなくなりました。夜寝るときにはしっかり窓を閉めなくては風邪をひいてしまうような気温です。

そこで私は「ほらね!」といつもの自分の主張に納得。
私はモンペリエでは口癖のように、「ここでは半そでや五分袖の服を着る季節がない~!」とわめいているのですが、本当にそうなんです。
夏の間は太陽の日差しがきつく、半袖なんかでは暑くて着てられないんです。そのためもっぱらノースリーブ。が一転9月にもなると過ごしやすいというのを通り越して涼しくなってしまうために、7分袖ぐらいに一気に衣替えしてしまうのです。

春はその逆。コートをはおっていたかと思うと、ある日突然、街を行き交う人たちが夏服になり、女の子はすぐにキャミソールになる。。。

やっぱり春と秋がないですね、、、。

ずっと雨が降ってなかったモンペリエも、ようやく降ってくれそうな雨雲がたちこめています。たまには雨も必要ですからね。それにしても今日は朝から肌寒い。
まあ、これから9月の間にもしかしたらまた30度以上の夏日が舞い戻ってくるかもしれませんから、臨機応変に対応しましょう。