2008年6月26日木曜日

滞在許可証更新時期せまる

フランスに3か月以上滞在するすべての外国人は、入国の際にビザが必要です。ビザはそれぞれの国の大使館で発行されるもので、フランス入国後はこのビザをもとに、現地の役所で滞在許可証を発行してもらわなくてはいけません。

フランスは移民大国ですが、そのために発生する問題は後をたたず、移民、外国人の管理が厳しくなった話は日本でもニュースで流れたそうだから、耳にした人は多いのではないでしょうか。

滞在許可証には、その人の身分によっていろいろと種類があります。学生、給料所得者、芸術家、研究者、商売をする人、そして元フランス領土だった国の人々には「家族呼び寄せ」などが適用されます。これらの許可証は基本的にすべて1年もので、一年たったら更新手続きをすることになるのです。今のところフランスにはアメリカでいう永住ビザのようなものは存在しなくて、一番長いもので10年カード。以前はフランス人と結婚した人、フランスで合法的に働いている人には、この10年カードが比較的簡単に発行されていました。それが今はガラッと変わり、フランス人と結婚した人でも、最初の3年間は毎年更新しないといけないし、働いている人なんかは始めの5年間は毎年更新しないといけないことになっています。
その他の一年カードについては、一回目の発行は今までとあまりかわらない審査状況だと思いますが、更新を希望するものに対してのチェックが厳しくなりました。学生としての滞在許可の場合、以前なら語学学校などに登録だけしてればなんとかなっていたのが現実でしたが、今は学校での出席率、そして学業の成果までチェックされますから、それなりに真面目に学業をこなしていなくてはいけません。そして今まではたくさんいたであろう、学生10年目とか、博士課程7年目とか、長期間学生身分でフランスに滞在している人に関しては、その学歴の一貫性が問われたり、厳しいチェックが入るようになるといいます。「家族呼び寄せ」の場合も、厳しい審査基準ができ、もし幸い受け入れられたとしても、フランス語とフランス文化の習得が義務付けられました。
私は日本人的に「郷に入ったら郷に従え」という考えが強いので、フランスに住むならば土地の言葉、風習を尊重してあたりまえだと思ってましたが、世界中からやってくる人々の中には、そんなのおかまいなしの人がたくさんいるのも事実です。ただ、この問題は植民地の時代からはじまる問題だから、原因から解決策まで話出せば長くて複雑な問題。「やっぱり歴史は重い」につきますね。
それに、受け入れが厳しくなったとは言っても、要はそれだけフランスで生活することを望む外国人が多いということ。理由は人それぞれにしたって、それだけ多くの外国人を惹きつけるフランスという国はやっぱりすごいと思うし、それだけ開かれているんでしょう。日本だったら、日本に憧れる外国人は増えてきたとしても、実際に日本まで来て、さらにここで生活をしていきたい!と思う外国人はまだまだ少ないし、外国人の入国規制はとても厳しいものだと思います。

私がフランス、モンペリエにやってきたのは2002年秋のこと。日本の大阪フランス総領事館で発行してもらった学生ビザでやってきました。モンペリエの大学の4年生(Maîtrise)に登録する予定できたので、学校の受け入れさえ決まれば、たとえ時間がかかって待たされたとしても、一応問題なく滞在許可証を発行してもらえました。その後、二年目は大学の5年生にあたるDEAに登録しなおすことになって、その年度末には無事論文を提出して当初の目的を果たしました。働き始めたおかげで経済的になんとかなったので、フランス残留、3年目にトライすることを決め、当時登録していたコンセルバトワールの学生身分から、滞在許可を発行してもらいました。4年目は大学の博士課程に進む決意をして、学生の滞在許可を更新してもらいました。とまあ、ここまではよかったんですが、問題となったのが5年目に当たる去年です。

私がフランスに来た最初からお世話になっていた指導教授のM先生が、予定よりも早く引退することを決められました。「leonardoには早めに伝えたかった」とうちらけられた私は、急遽、次の指導教授を探さなくてはいけなったわけです。博士論文の指導教授は、やっぱり研究テーマによってきちんと選ぶべき大事なこと。しかも受け入れてもらわなくてはいけません。M先生とも相談した結果、他大学の先生でふさわしい人にお願いしようということになりました。
これは私にとっても一大事。他大学ということは、他の街です。その場合、はたして私はモンペリエを離れて他の街へ引っ越しをするのか?答えはノーです。だって、モンペリエでしている仕事のおかげで生活がなんとかできてるのですから、モンペリエを離れる=仕事がなくなる=生活ができない、です。ならばモンペリエに残って生活を続けながら、他の街へ通うのか?う~ん、大きな疑問です。まず時間の問題。そして交通費だってタダじゃない。こうなると、大きな選択をするなら今だなと感じました。ただ優先順位をつけるぐらいでは片付かないような大事な選択。つまり、フランスで博士号をとるのか、今ある仕事を続け、さらに発展させる可能性にかけるかのどちらかを選ばないとだめだなと感じました。というのも、もちろんこの二つのことを両立できたらそれが理想ではあるけれど、フランスに来た二年目から始めた仕事が思った以上に調子よく、この先続けていくには、外国人学生として制限された労働の権利が大きなネックになってきていたのです。詳しく言えば、外国人学生はハーフタイムまでの労働時間に制限されていたのです。もちろんそれすらも、労働許可証をとるとかいろいろと面倒なことがありました。仕事が順調になってくると、このハーフタイム以下におさえることが難しくなってきたのです。つまり、学生身分を保つために、せっかく声をかけてもらった仕事を断るのか、仕事をやっていきたいのか、のどちらかを選ばなくてはいけなくなったんです。 私だって仕事の厳しい現実はわかってます。来る話を断りつつ、自分に都合のいい時間だけキープしたいなんて甘い話はうまくいくわけありません。

この大きな問題を、すでに2004年度あたりからは漠然と考えるようにはなってきてたものの、学生という身分から、自由に働ける労働ビザへの変更は難しいという話のせいで、リスクを避けていたのも事実です。しかし、M先生の引退決意の報告を受けて、この問題と向かい合わなくてはいけなくなりました。だって、また一から新しい先生と出会って研究をするにしても、博士論文執筆には莫大な労力と時間、そして資金も必要です。さらに純粋に研究のためだけだなく、フランス語がやっぱり大きなネックなのは違いありません。当時の私の仕事の量から言って、博士論文と仕事を両立するというのは、理性的に考えて無理でした。そのため、悩みに悩み、迷いに迷った末、実はリヨン大学の先生に受け入れてもらえるというところまでなんとか進めていたにも関わらず、私は労働ビザへの身分変更にチャンスをかけることにしたのです。

リスクをとるとは決心したものの、リスクは大きかったです。なんせ、ここ数年、外国人のコントロールが厳しくなってきた一連の動きを起こした張本人、ニコラ・サルコジ氏が大統領に選ばれたんですから。当時彼は、「imigration choisie」と言って、外国人を審査、選別して受け入れOKか否かを決めるスタンスを示しました。そこでいろいろな条件があげられることになったんです。そこで、フランスに多数いる外国人の間では、口コミ情報、噂、さらにはデマまで飛び交い、たくさんの人が自分の滞在許可が取れるのか、更新できるのか、不安になったものです。とくに、「却下された場合には15日以内にフランスの国外に退去する命令が通知される。」という文面のインパクトは強かったですね。働く身分の人は、管理職で、しかも月給3000ユーロ以上じゃないとだめだとかまで聞きました。この噂には、「フランス人だって、3000ユーロ以上稼いでる人なんて数が知れてる!」とみんなが言ってました。それでも当事者の私としては、噂に翻弄され、ほとんどだめなんだと覚悟しての申請となりました。

労働許可を申請するには、雇い主の書類が必要です。その会社、団体についての公的な書類の数々、そして一番大事なのは私との契約内容。そして「なぜ、外国人であるこの人物を雇う必要があるのか」という理由を説明する文書。雇い主にとってもめんどくさいことだから、私はおそるおそる頼んでみました。そしてら、音楽学校も、オペラjrも、双方「準備するよ!まかせて!leonardoが残れるようにしなくっちゃ!」と、私の申請をサポートしてくれると言ってくれました。このとき、小さい輪ながらも、仕事仲間から、友達から、お世話になってる人など、モンペリエで私を取り巻く人々の間にleonardoサポーター行動が起きました。私はこれで感無量になり、それまでリスクのこと、つまり国外退去命令のことばかり頭にのしかかってましたが、みんなの援護を受けて、「これでだめだったら縁がなかったってことだ。」と思えるようになりました。

去年の私は夏の間中この問題を考え、悩み、結局結論を出したのは9月頭だったんです。そこからあわてて書類をそろえて提出したために、すぐに返事がくるわけもなく、昨年度の滞在許可証は9月24日で予定通り切れてしまい、そこからの私は「sans papier」、 つまり、身分を証明する書類をもっていないという危うく、弱い立場の外国人となってしまいました。 「違法滞在」と言われえる立場。。。 県庁でそのことを説明して、「せめて何か一筆、私が身分変更申請中だとか証明してくれませんか?」と頼んでも、「まあ、大丈夫ですよ。」って言う。まあ、大丈夫って、もしものときのことを言ってるのに、なんててきとうなことを言うんだ~。。。
しかし意外なことに、フランスの役所にしては異例の早さで取り扱ってくれたのか、10月末に県庁からの呼び出し状が届きました。「滞在許可証ができたから県庁にとりに来るように。」と。今度は呼び出し状がある人専用の、番号札付きの窓口で並びました。自分の番になって窓口に行くと、マダムは「はい、サインして。」と言ってから、「Voila~!フランス全土でOKよ。」とフレンドリーにカードを差し出してくれた。そう、そこには「サラリエ(給料所得者)」と記されていて、しかも「フランス本土全土で有効」とまで。雇い主の名が記されてそこだけ限定とか、地名や地方名が書かれていてそこだけに限定とかいう場合もあると聞いていたので、「フランス全土でどんな仕事をしてもいい労働許可証」をゲットできて予想外。私が望んでいたもの以上のような、100パーセントの滞在許可証を頂きました。

ああ、今思い出してもあの数ヶ月間は本当に頭の中と心の中がぎゅうぎゅうでした~。

なぜこの話題を今、私が書くのかというと、本来、滞在許可証の更新のための手続きは、期限が切れる二か月前に始めないといけないといわれています。そのため、来年度の滞在許可をゲットするには、今、動きださなくてはいけないんです。だから夏のバカンスは楽しいと同時に、9月からの自分の滞在身分が確保できるのかできないのかと心配する、気が気でない時期。

というわけで、私は来年度の滞在身分を得るために動きだしました。実はここまでは本題に入る前置きだったんです(いつも長くてすみません:笑)いつもの長いコメントを避けるためにも、今日はここらへんでおやすみします。また続きを読んでください。

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