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2016年1月8日金曜日

あれから一年

皆様、あけましておめでとうございます。
皆さんの健康を祈り、ポジティブで、かつ、丸っこくて暖かいエネルギーが世界に広がることを祈るばかりのこのごろです。

2015年はフランスにとって歴史に残る痛ましい年となっていまいました。世論調査によると、81%のフランス国民が、「2015年はフランスにとって悪い年だった。」と答えています。
国民一人ひとり個人にとっても悪い年だったというわけではないようですが(51%が自分にとっては良い年だったと回答。)、2015年に起きたできごとの数々によって、国民は自分たちの生活がこれまでのようにはいかないのだという意識を強く持ったのは確かなようです。

今日からちょうど一年前の1月7日、パリの風刺新聞社シャルリー・エブドがテロリスト兄弟に襲われ、11人が命を奪われました。新聞社の中心メンバーたちが編集会議を行っていた最中で、フランス人なら誰もがよく知る著名な風刺漫画家たちが数名、そろって命をおとしたことでもフランス全土に大きなショックを与えました。けれどこの事件はこの日だけでは終わりませんでした。数日にわたって犯人は逃走し、さらにもう一人別の犯人が彼らと連携連動しており、ユダヤ系食材スーパーで人質をとって立てこもるという事件が同時に起きてしまったのです。

結果、シャルリー・エブド関係者、スーパーの客、そして警察官の17人もの人々が命を奪われてしまったのです。

この日をきっかけに、フランス国民の感情が深いところで傷つき、揺さぶられました。

まず、多くの人がいつかは起きてしまうのではないかと、どこかで感じていたことが実際に起き、どうして防げなかったのかという思い。これはシャルリー・エブドが数年前から数々の脅しの対象となっていたことに関係しますが、日本人からみてこのシャルリー・エブドがなんだったのかと理解するには、ちょっとやそっとの説明では不十分だと思います。事件後、日本でも数人のフランス専門家がこのテーマに関して本や論評を発表しましたが、ぜひ、ひとつの文章の前だけで立ち止まらずに複数の文章を読んで、フランスという国の成り立ちや、表現の自由の権利にまつわる歴史、さらには風刺画にまつわる歴史に関する文章なども読んで、全体像からつかんでいっていただけたらと思います。

重ねて、DAESH/イスラム国の脅威、特にフランスの若者が現地へ渡って活動に参加しているという実態が、ここ数年報じられ、専門家たちが警鐘をならしていたにもかかわらず、フランス国民の意識が1月7日の事件の惨状を目の当たりにするまで、十分なレベルまで達していなかったのではないかという思い。
なぜかというと、イスラム過激派のテロリストの脅威は常に存在しましたが、フランスで生まれ育ったフランス人が、テロリストの影響を受け、しかも現地へ行って訓練を受けたうえで帰国し、フランス国内でフランス人を相手にテロ行動を起こすという図式を、こうもやすやすと証明されてしまっただけでなく、彼らの間に連携体制があり、大きなネットワークと個々に行動を起こすという二重の構造がはっきりと見えてきたからです。実際にはもうすでに過去にも例があり、専門家たちは警鐘をならしていたわけですが、フランスの一般市民が実際問題として理解したという意味では、この事件の衝撃は大きかったのです。

さいごに、この事件で問われたのがフランスという国の存在意義の核をなすと言っても過言ではない「表現の自由」。この表現の自由の権利が侵されたのです。
シャルリー・エブドがそれまでに発表してきた数々の風刺画が、テロ実行犯にとって「神からの罰を受けるべき」対象であり、関係者を次々と射殺したのはそれを実行したに過ぎないのです。
以前にも紹介した、フランスの民主主義の思想を端的に説明するフレーズが、ヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。」ですが、社会をあらゆる角度から批判精神の目で観察して風刺画に表すという活動を行ってきた新聞社が、その風刺画のせいで命を奪われたのです。
この権利が、先ほど述べたシャルリー・エブドという新聞社の存在に象徴されるという形になり、事件発生からまもなくして「Je suis Charlie」(私はシャルリー・エブド)というスローガンが世界中に広まったのでした。犠牲者への追悼の意を表し、また犠牲者への連携の意を表し、表現の自由を守る大切さを訴え、意見が違うから、考えが違うからといって人の命を奪うテロ行為を断固許さないという意思表明のため、フランス中で市民が街に出てデモ行進をしました。




パリだけではありません、フランス各地で見られた光景です。




このとき、理解しておかなければいけなかったのは、意思表明を行ったフランス国民のみんながみんな、シャルリー・エブドの大ファンだったというわけでは決してないということ。販売部数は減り、存続がいつも危ぶまれていたギリギリ経営の極小新聞社でしたし、発表される風刺画に対して、皆がいつでも手をたたいて賞賛していたわけではありません。たまには「よくぞ言った!」的な反応があったとしても、たいていは「よくもそこまで、、、」と内心思ったり、「それはさすがにちょっとやりすぎなんでは?」と思うこともしばしばあったわけです。
同時に確かなのは、シャルリー・エブドは何もイスラム教だけをターゲットにして笑いのネタにしていたのではなかったということ。彼らの精神は社会に存在する、ありとあらゆる矛盾や見え見えの偽善、エゴといった、人間の姿を笑ってやろうというもので、キリスト教はもちろん、フランスの政治化、有名人、ある現象や社会問題、まさにありとあらゆるものを風刺画の対象にしてきました。

ですから、人々は殺された風刺画家たちが手にしていたのは鉛筆であり、ペンであったとして、絵であれ、文章であれ、表現の自由を象徴していたものが侵されたことに抗議する意味で、鉛筆やペンをプラカードの代わりのシンボルマークとして行進しました。




フランスで大多数の人々が連帯姿勢を表明した中、「シャルリー・エブドはやり過ぎた。こうなって当然だ。」、「シャルリー・エブドは人の信仰心を傷つけた。自業自得だ。」、とささやいた人々も確かにいました。これにもとづく討論や意見の表明などが、哲学者なども巻き込んで広がりました。
けれど、フランスでは「表現の自由」というものがフランス国民の核となるものであるという認識がゆらがない一方で、日本から聞こえてきた声は、大多数が「シャルリー・エブドはやり過ぎた。」というものでした。「とても下品で野蛮な風刺画ばかり書いていた。」という声や、「宗教を信じる人々の心を尊重しなくてはいけない。」や、「相手が侮辱されたと感じるような行為はしてはいけない。」と言った、教訓的なコメントが目立ちました。もちろん正当な、一理ある意見です。けれど、この出来事の全体像を前にして、どこかずれがあるように私には感じられました。同じテーマを扱っていないような、同じレベルのテーマを扱っていないような、そんな風に感じたのです。やはりメンタリティーが違う、文化が違う、宗教観が違う、価値観も違う、社会が違う両国なのですね。「表現の自由を守る。」という概念に対する認識が違うように思いました。
また、フランス全土で国民が街に繰り出した様子を映像でみて、やはりどこか自分たちとは違う人々だと感じた人が、日本には多かったのではないでしょうか。

私は両国で報道されるニュースの中身や、有識者、専門家のコメント、そして一般市民の反応などを見比べているうちに、これまで時代が変わって両国が近づいてきていたところへ、やっぱり根本的なところで日本社会とフランス社会は違うな、と思わされるきっかけにこの事件はなったな、と感じました。そして両国民がお互いに異文化交流を深めるには、相互理解を深めるには、まだまだ乗り越えるべきハードルがいくつもあるなと痛感していったのです。

そんなさなかに起きたのが11月のテロ事件でした。
金曜日の夜ということで賑わうパリの夕べが、複数のグループに分かれたテロ集団によって、恐怖の夜へと一転しました。
この事件で明らかになったのは、このテロリストたちの思想を相手に、「シャルリー・エブドはやり過ぎた。」のかどうかという論争は、まったく関係ないということでした。週末の夜を楽しむ、ごくごく普通のフランスの若者たちがなんの理由もなく殺されたのです。まさに大量殺人でした。しかも周到に計画されて準備されて、犯行は行われたのです。

1月から11月の間に、いくつものテロ行為がぎりぎりの段階で食い止められたりしていて、私たちはずっと何かの延長線上にいることは意識していました。しかも、標的はなにもパリだけではないのです。パリとブリュッセルを結ぶ新幹線の中でテロ行動に出ようとした犯人を、たまたま居合わせたアメリカ兵が犯人を押さえつけて大惨事を免れたというニュースは日本でも報じられましたが、残念ながらその事件だけではないのです。オルレアンという、北部の地方都市でもテロが計画されていたことが発覚しましたし、モンペリエでだって、驚くようなエピソードが報道されています。コメディ広場で不審物が見つかって、広場一帯は一時立ち入り禁止になったとか、妊婦さんに見えるようにニセモノのおなかを準備して、テロを企んでいたというカップルが逮捕されたと報じられたのです。

フランス各地でさまざまなテロ関係のニュースが流れると、一番重大なのは、国民が「またか!」という思うのを通り越して、「これだけでは終わらない。」と自覚している段階まできたということです。

11月の事件発生後、大統領は「戦争状態だ。」と宣告しましたが、この表現はともかく、フランス人の頭の中に「自分たちの暮らしがこれまでとは違うものになってしまった。」という認識が刻まれまたのは明らかです。
大統領とその周辺は、さまざまな確かな情報を手にしていて、専門家たちもTVなどでかなり細かいところまで、テロに関するフランスを取り囲む現状を解説してくれます。

皆が危機感を持つのは大事ですが、残念なのは不十分な理解からさまざまな間違った認識が広がることです。簡単な大まかな例で言えば、この一連の事件のせいで、イスラム教徒全体に対して間違った認識を抱いてしまったり、移民系市民に対して間違った認識を抱いたりする人々も多く、社会の状況をさらに悪化させるような現象がおきかねません。

置き換えれば日本における福島の問題も似た状況だと思うのですが、国民一人ひとりが現状を理解しようとする努力と、正しい全うな判断を下そうとする努力をしないと、おかしな、極端な、そして排他的な論調が社会にすぐに広まってしまいます。

大勢の人が何かに恐怖を抱くというのは、そんな現象を起こしてしまうんだと思います。
その証拠に、あんなにフランス全土で声高らかに叫ばれた「表現の自由」を守る運動や、「私はシャルリーだ。」というスローガンも、12ヶ月が経った今、なんだか様子が変わってしまいました。
普段は強気なフランス人も、怖いもの知らずなフランス人も、やはり見えない脅威を相手に、恐怖心を抱いているのです。当然のことです。さらには、上に書いたようなさまざまな情報が飛び交うなかで、変な誤解を恐れたり、自分のもっている情報が正しいのかと躊躇したり、自分の意見を主張することで変に目立ったしまったり、身の上に危険が生じるのを心配しているうちに、「いかなるときでも表現の自由は守られるべきだ!」と断言しきれる人が減ってしまったのです。

今では、冷静な鋭い目で現実を訴え、フランスの憲法や表現の自由を尊重することを訴える人たち、あるいは、何がテロの元凶なのかを私たちに説明してくれる専門家たちは、皆、命を狙われている人々となり、警察による護衛がついています。彼らこそ、自由を訴える行動を続けることによって、生活の自由を奪われてしまっているのです。何をするにもどこにいくにも護衛がつき、一人で自由に行動できなくなってしまったのです。しかもその命の危険のリスクは現実のものですから、どうすることもできません。

「こんなおかしなことはない!」と嘆くほか、今の現実、現状はこうなのです。

あの日から一年。
今日もパリでナイフを手に警察署に押し入ろうとした人物が射殺されるという事件がおきました。当初、爆弾装置を身にまとっていたと報じられましたが、すぐに、それがニセモノだったとと断定されました。この人物所有の身分証明証と指紋が一致しないなど、いろいろな情報も流れてきました。そんな中で、射殺した警察官を非難するような言動に出る人もいます。

こうした出来事の節々にフランス国民の今の複雑な心理状態が垣間見れます。

2015年1月7日。フランスは新しい時代に入ってしまいました。

もう日本社会が抱える問題とフランス社会が抱える問題は、次々と違ったものとなっていくでしょう。テロの問題、中東との関係、そして押し寄せる難民の波。国内では失業者数がどんどん増え、失業率は10パーセントを超えています。少なく見積もっても、フランス全国民の10人に一人は仕事がないのです。深刻な状態です。地方によってはさらにひどく、我々モンペリエは15パーセントを上回る、非常に高い失業率をマークし続ける都市の例にあてはまります。こうなると、超資本主義の国の日本人からみたら、「仕事がない」という状況を理解しにくくなっていると思うのです。
現フランス政府はこれらのどの問題をとっても批判の的にさらされていますが、正直、私は「こんな問題すべてをカバーして解決できるそんなスーパーマンはいるのだろうか?」と思ってしまいます。

日本は日本でいろいろな問題を抱えているでしょう。少子化の問題、介護の問題、安全保障の問題、東北の問題、福島の問題、、、。そして人間が何を行おうと、自然災害はこの先も起き続くでしょう。

新しい年の初めにあたって、少しでも人々が穏やかな気持ちで、暖かい気持ちで互いに助け合い、問題解決に取り組んでいくような、そんな空気が日本をフランスをも包んでいってくれることを心から願っています。

2015年2月1日日曜日

悲しい知らせ

今夜数時間前、フランス時間で土曜日の夜21時すぎ、日本時間で日曜日の朝5時すぎ、ジャーナリストの後藤健二さんが「イスラム国」に殺害されたようだという第一報が入りました。

私は年明けのパリで起きたテロ事件発生以降、虫の知らせといいますか、世界が穏やかじゃないことが気になって、四六時中世界のニュースを追うようになっていたために、世界のメディアが情報をキャッチしたとほぼ同時に、最新ニュースとしてこの悲しい知らせを目にすることとなりました。

先日書いたように、パリでのテロ事件に対して見られた日本人の反応が、どうも遠い国の話のようにとらえているようで、どうも危機感もあまり感じられずに、問題が地球規模の問題なのだと意識している様子が感じられずに、そのことがとても気になっていたと同時に、すごく嫌な予感がしていました。それからわずか数日後に流れた日本人二人の拉致拘束の報道を見て、「ああ、来たか。」と思うほかありませんでした。イスラム国だって、もちろんそこを突いてきたか、と。

それから毎日、日本、フランス、アメリカなどのメディアが流す情報を追っていましたが、今日の悲しい知らせを待たずとも、感じていたのは「世界がおかしな方向に行っている。」ということと、「これから世界がもっと変な方向に向かってしまうかもしれない。」という心配でした。

イスラム国がやっていることは、イスラム教の教えとはまるで反対だということを知っている人だって増えていっているだろうに、イスラム教への誤解は膨らむ一方のようです。それはパリのテロ事件後に予想されたように、フランスでもおかしな無理解、誤解が広まっているのを否定できません。イスラム教徒が身近にいるフランスでは、社会に対する不安をイスラム教徒にぶつけるという深刻な風潮になりかねません。日本人の無理解、誤解は、「現によく知らないことだから。」に発するものでしょうが、日本が国際社会の一員であると言うのであれば、あまりよく知らないではすみません。

そして一番肝心なのは、アメリカをはじめとするイラク・シリアの空爆。アメリカはその成果を強調しようとしてばかりですが、あそこからまたとてつもない憎しみが生まれることを、今になってもわからないのか、過小評価しているのか。9.11を経験してもわからないのか。
日本も「テロには断固として戦う。」という方針をもちろん強めていくだろうけれど、そのアメリカ主導の流れにどんどん入っていっていい結果が出ると思えるのか。今後、安全保障のために日本の軍事力を強化するとか、自衛隊を派遣するとか、「力」にだけ目を向けてしまってはますます危険が増すことも否めない。

私だってじゃあこうすればいいと、簡単に案が出せるような話じゃないことはわかっているけれど、そもそもの元凶は「無理解」だと思っています。もっとみんなが世界を知れば、少しずつでも、たとえちょっとでも、いい方向に進んでいけると思うのに。そしてそれぞれの多様性をもっと受け入れられるようになったら、世界がもっと平和になれるだろうにと思うのです。

今の世界の状況は、アメリカの元ジャーナリストで社会的ドキュメンタリー映画監督のマイケル・ムーアが言っている通りだと思います。

「無理解が恐れを生み、恐れが憎しみを生み、憎しみが暴力へと続く。これが方程式だ。」と。

この方程式から抜け出さない限り、どこまでもテロとの戦いが続いていってしまうと思います。

日本は東日本大震災から被災地の復興もまだまだこれからようやく始まるかというところで、さらには福島の原発問題の行方もわからないというところで、東京でオリンピックを開催するぞと言って騒いで、見事招致に成功したとなれば、経済効果がどうのこうの、東京の改造計画だの、やっぱり日本が重要視しているのはお金かと思うしかない。しかも国が抱える深刻な問題はどこへやら、まるで「臭い物にはフタ」の精神で進んでいこうとしています。
母国をそんなに批判して、と言われるかもしれませんが、一歩距離をとって客観的に見ていると、そうとしか見れないのです。
そこへ追い討ちをかけるように、世界を脅かすテロ行為についても、「テロ行為は絶対に許せません。」と当たり前のことを言い、「人道活動の支援に何億ドル出しましょう。」と、お金をだせばいいという話なのか?と疑問に思わざるを得ない方針を続けてきて、今回の人質殺害にいたるまで、ひとつの道順ができてしまったと理解してもおかしくないと思います。

日本は二発の原爆投下まで経験して、日本だからこその立場、主張、外交方針などがもっとあってもいいだろうに、世界の外交シーンでは、日本はまるで存在のない、立場のない小国のようです。一度は世界一の経済大国という立場も経験したのだから、日本人は日本も世界のトップクラスと認識してしまっているかもしれないけれど、それはあくまで「お金」に関してだけなんだと思います。お金が世界を動かすと信じる限り、お金で問題を解決できると信じる限り、お金は大事だけれど、そうやってここ何十年と世界が動いてきたから、おかしな方向になってきたのでは。
日本ではグローバリゼーションと言いながらも、世界からみたら変な位置をしめる国だということを自覚していかなくてはいけないのではないでしょうか。
今回の人質二人の殺害事件を受けて、日本人はこうして中東で起きている深刻な問題に気づかざるをえなくなるんだろうけれど、殺された後藤さんがライフワークとして続けていたのは、「現地の弱者の立場をもっと理解しようよ。」ということだったはずです。

中東を遠いアラブの国々と思って片付けてしまわないで、イスラム教には過激な人たちがいてなんだか怖いで止まってしまわないで、もっと地球規模で、世界のあちこちの問題を気にしていかないと、本当のグローバリゼーションはないと思います。
もちろん、フランス人にだって、アメリカ人にだって同じことが言えると思います。
うわっつらだけ見てるだけなのだったら、最初から異国情緒の甘い憧れに浸る段階でストップしておいて、他国のことに首をつっこまないでおけば、それこそ世界はもっと平和になるのかもしれない。

世界は進歩したと思う一方で、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)からまだたったの70年かと思うと、世界平和に向けて奇跡的な大進歩をすでに遂げれていると思うのはまだまだ甘いのかと痛感したり、、、。

自分と人は違うという、多様性の理解と尊重を世界中の学校で、家庭で教えていけばちょっとは未来が明るく見えるかも、と思うのですが、難しい問題ですね。まずはそれを日本で、フランスで、浸透させていってほしいと願っています。



世界のどこにいても、見上げる月はたった一つの同じ月なのな、と悲しくなる夜でした。




2014年11月2日日曜日

珍獣との遭遇

フランスでは先週の日曜日から冬時間に切り替わり、気温も突然下がって、夏は過ぎ去ってしまった、、、という感が強い今日この頃。

ブログの更新をしようと思って、新しい記事を書き始めると同時に、ここ数年書き途中の記事がたくさんたまっていたことも気になって、なんだか中途半端にだらだらと更新しきれずにきています。

そんな中で今日は思い切って過去の書き途中の記事をアップさせてもらいます!

話題は世にも珍しい動物との出会い。

ある日、音楽学校の同僚であり友人であるMから「leonardoに紹介したい奴がいるからうちに寄ってよ!」と言われて、大型犬も猫もいるにぎやかなおうちに入っていくと私の目の前に現れたのがこちら。


じゃじゃーん。

私の反応 「え、これ誰??何という動物??」

M「シンシラーだよ!」

私「シンシラーって何??」

猫でもうさぎでもなく、ねずみでもハムスターでもなく、でもなんだか大きなハムスターにも見えるこの生き物。「シンシラー」というその響きが、初めて聞くような、聞いたことがあるような、、、で頭の中で精一杯自分の知識と思い出をしぼりだそうとしました。





大きさはこのように両手に乗るサイズ。



植物の根っこやナッツ系、ドライフルーツなどを喜んで食べているこの動物。

皆さんはご存知でしたか?

シンシラーというフランス語発音が邪魔をしましたが、そうです、どこかで聞いたことがあったチンチラだったのです。質のいい毛皮の話でしか聞いたことがなかったけど、このような姿の動物だったとは!全然知りませんでした。

当時、Mの家は男一人女二人の共同シェア生活でしたが、ある晩、トイレから変な音がすると思って見に行くと、水を飲もうとして(人間用)トイレにはまったチンチラ君がおぼれかけていたそうです。誰も音に気がつかないで夜を過ごしていたら危うかったと思いますが、無事救出されてラッキーだったチンチラ君。
Mにもすっかり懐いていましたが、その後、他の人にひきとられていったそうです。



思いがけない、しかもこれまで見たこともない動物との出会いって、非日常的な驚きで新鮮でしたよ。

この話はかれこれ5年くらい前のこと。
懐かしいです!


2014年7月20日日曜日

31882 ‼

皆さんお元気ですか?

またまたずいぶんとご無沙汰してしまいました。

今やフランス全土がバカンスシーズンに入っているので、モンペリエの街の様子も普段とは違って、バカンスモード一色です。
通学する学生たちが姿を消し、通勤する人の姿もガクッと減り、街はのんびりとした雰囲気です。22時くらいにならないと日も完全には沈まないので、長い夕べがにぎわう時間。どこのカフェもバーもテラスが人で一杯です。
夏の二か月の間、街様子が普段と違うという点も、日本では見られないことですよね。

私もあと一週間でバカンス、というところまで来ています。
毎年待ち遠しいバカンスも、今回は特別。
過ぎゆくこのシーズン2013-2014は「難しい一年」だったからです。

私はよく自分のモンペリエ生活を「波乱万丈」だと言ってきましたが、この一年は「波乱万丈」というよりも、残念ながら問題勃発の連続でした。振り返ってみればほんとにいろんなことがありました。
10月には車が乱暴行為の被害にあい、年明けてからは身体を壊してしまい、フランス生活で初めての「仕事停止」も経験しました。利用、濫用している人も多々いると言われる「Arrêt maladie」です。2月から5か月たった今もまだ完治していませんが、このバカンスで心身ともに休息、リフレッシュして9月には新スタートを切れるとよいなと思っています。

今年一年で出会ったトラブルの一つ一つがブログのネタにまたなりますが、後で気が付いてみたら、これが「厄年」というものだったのか、という結論です。
厄年とか、普段気にするタイプではなかったのですが、さすがに今年はそう理解せざるを得ないというか、難しく、乗り越えるにも厳しい一年でした。
私が厄年の終わりで、私の相棒も厄年の終わり。二人そろって厄年パワーも強かったのでしょうか。その6月には相棒のお母さんが病気の急展開を迎えたうえに亡くなってしまい、厄年のしめというにもなんとも痛々しい終わりでした。
何をしていても時は過ぎていくものですが、この長かったトンネルを抜けて、この夏を機に新しいステップを踏んでいきたいと思っています。

さて、 そんな事情もあって、このブログの更新が相変わらず途切れていたのですが、そんな中で31882回の閲覧回数をカウントしていたことに気が付きました。
ビジターさんの中には、記事を読んだ感想を残して言ってくださる方もいます。
ありがとうございます。

3万回など、切れ目のいい時に気が付いていたらよかったな、なんて思ってしまいましたが、そこからさらに1882回のアクセスがあったのですから、ありがたいことです。

これまでに書きかけたままでアップしていない記事もたくさんあります。日常の出来事、素敵な風景などはもちろん、参加したスペクタクル、出会ったアーティストのことなど、たくさんのネタが眠ったままです。
どうぞもう少しお待ちくださいね。


2013年4月13日土曜日

2012年9月25日

皆さんお元気ですか?

いつもドタバタと本当に忙しく、「そんなに忙しそうに何をしてるの?」と人に言わてしまう生活をするようになって、早数年。

そんな日々の様子を、このブログでも全然伝えられないでいるままに時はたってしまいましたが、今日は少し時間をさかのぼって、一つだけ大事な報告をさせていただきます。

と書きだすと、日本におられる皆さんには「おお、ついにleonardo も結婚か、もしくは出産か?」 となりそうですが、そうではなくて、昨年9月に起きたできごとです。

2012年9月25日は私にとっては大事な日でした。
なんでかわかりますか?

それからさかのぼること10年、私が「ちょっとだけ人生の冒険に、、、」と日本を発ち、南フランス、ここはモンペリエにやってきたのが2002年9月25日のことだったのです。
何度も言いますが、長く持っても一年とちょっとだろうと思ってやってきた私でしたが、いろいろな人生の不思議、ご縁に導かれるままこちらで仕事をするようになり、果ては労働ビザもすんなりと取得し、すっかりフランス人社会の一員となって暮らしてきました。
海外生活をする日本人がたくさんいる今日でも、私のようなケースはやっぱりいまだに少数派で、ラッキーなケースだといえるでしょう。

とは言っても、ここでこうして生活するためのビザ、すなわち滞在許可証は毎年更新しなくてはなりませんでした。
給与所得者としての身分で生活する私は、仕事の契約証明、収入証明はもちろん、住所証明などを含めて、自分の生活を証明するあらゆる書類を毎年整えては県庁に赴き、世界中からやってきた外国人の中に混じって長蛇の列の一員となり、 自分の番になることを、そして質問に返事をもらうことを、そして召喚状がくるのを、さらには新しい許可証を実際にもらうまで、「ただひたすら待つ」という経験を10年しました。

去年の9月25日、例年のごとく、手続きの方法がまた変わったことをうけて、個人的に面接の約束や予約をとったりしたのち、晴れて召喚状が届いたので、県庁に行きました。

フランスには永住許可証と言うのは存在せず、レジデントカード(Carte de résident)あるいは10年カードと呼ばれる10年分の滞在許可証が、外国人がのぞめる最長の滞在許可証です。
毎年の申請手続きで貴重な時間をうばわれることにたいがいうんざりしてた私は、ここ数年、毎年、この10年カードが欲しいと訴えてきました。
だって、私の仕事の契約は期限なしの終身雇用なので、毎年新たに書類を整えると言っても内容は毎年一緒で、大した額ではなくても、一定の収入があります。そんな私がどうして他の外国人、つまり例えば学生さん、あるいは仕事もなければ住所も不定のような外国人と同じ列に混ざって申請しなくてはいけないのか、まったく納得できなかったからです。みんなごちゃ混ぜのせいで、長蛇の列ができて時間がかかるんですから。
しかも、例年外国人に対する政治、制度はどんどん厳しくなっているので、毎年どんな条件で滞在が許可され、どんな状況だと却下されるのか、はっきりしないままですから、自分もいつ却下されるかわかりません。毎年はらはらしながらの申請手続きでした。
挙句の果てには、年々難しいとは言っても、フランス人と結婚した外国人は、その結婚相手の収入に基づく生活証明によって、申請から4年目には10年カードが取得でき、完全に自立、独立した私のようなケースは、5年以上またなくてはいけないという話にも、まったく納得できずにいました。

そんなことを背景に、この日も「まあ、だめでもともとだけど、、、」とは思いながら、県庁に行った私。「この申請もこれで11回目だなあ」と感慨深くなったりもしながら、自分の番を待ったあと、窓口では「そんなあっけなく?」と思ってしまうような手際で、受領サインと引き換えに小さなプラスチックのカードをもらいました。

「さようなら」と担当者に言って一人になってからじっくりとこの小さなカードを見ました。
カードには自分の顔写真とともに、名前、国籍、性別、滞在身分、住所、そして自分の署名も記載されていているのですが、問題は有効期限です。

よく見てみると、そこには2012年9月24日から2022年9月25日まで有効との記載がありました。

2022年まで!ということは!?

晴れて10年カードの取得の瞬間でした。

ついつい「2022年というと、私は何歳になってるの?」と自問自答しちゃいました。
私は25歳でフランスに来たので、そうです、2022年には順調にいけば45歳になってるのです(!ほんまかいな?)

「人生は冒険」 という言葉どおりの生活だったこの10年。
いろんなことが思い出されました。

皆さんに伝えたい数々のエピソードが山積みですが、少しずつブログに戻ってこれるようになることを期待しながら、こうして私の冒険生活は新しいステップを踏み、新しい10年が幕開けたことをご報告させていただきます。

2012年9月25日は私にとって、「モンペリエ生活祝10年」とともに、「祝10年カードゲットの日」として、私の人生に残る、記念すべき日となったのです。

2012年8月10日金曜日

モンペリエで盆踊り!

皆さんこんにちは。

すっかりご無沙汰しています。
日本の猛暑のすさまじさは聞いていますが、今年の南仏の暑さもかなりのものです。
こちらは湿気がないだけ、楽なのですが、、、。

さて、前回の半年前の記事でも書かせてもらいましたが、私のモンペリエ生活、皆さんにお伝えしたいネタはたまる一方です。ここ2年ほどとても忙しくしていて、自分でも半分狂ってたと思うほどですが、この夏を区切りに一度心身ともに落ち着かせて、徐々にブログにもまた戻ってきたいと思っています。どうぞお待ちください。

さて、今日は2011年3月に立ち上げた、東日本大震災被害者支援団体、Association Solidarite Japon 34のこの夏のイベントのお知らせです。
このボランティア活動についても、まだloenardoは続けてるのかしら?と思ってらっしゃった方も多いと思いますが、バリバリ現役でつづけていますよ!そのおかげでブログに戻ってくる時間が皆無だったのです、、、。

この活動を始めてから、私の生活も大きく変わりました。ただでさえ忙しかった仕事とこのボランティア活動、そして自分のプライベートの時間をどのように確保するのか、、、。結局答がでないままがむしゃらに走り回っているうちに、この夏のバカンスにたどり着けたのです。我ながらよくぞもちこたえた、、、と驚いています。この一年半、特に健康面では周りの人にかなりの心配をかけたものです。今後も元気に活動していくためには、まずは休養。。。やっぱり健康が一番ですからね。

さて、今回はモンペリエに住むプロダンサーである日本人仲間Aさんがイニシアティブをとり、モンペリエで盆踊り大会をしようという企画です。
私たちの会は、被災者支援を訴えるにしても、そもそもの目的が長期的支援ですから、こちらの人々に日本文化の紹介を行いながら、日本を感じてもらい、被災地に想いをはせてもらう、、、そんなコンセプトとともに活動しています。
ですからこの盆踊りはぴったりの企画。お盆が何なのか知ってもらい、盆踊りの本来の目的を知ってもらうと同時に現代日本で盆踊りがどのようにとらえられているのかも知ってもらいたいと思っています。そして参加者皆で東北の犠牲者に想いを寄せたいと思っています。

屋外でするために、公共の場所の利用許可など、事務的な段取りがあったために、正式に告知ができるようになったのはついつい数日前。しかも盆踊り大会は来週火曜日14日です。もうすぐ!
モンペリエの中心地、凱旋門と水道橋の間にあるペイルー公園が会場です。

ぎりぎりになってポスターもできました。

実はこのポスターをデザインしたのも、ダンサーのAさん。
ほんとにいろんな才能をもったエネルギッシュな人です。

18時から23時までの間やってます。参加は自由ですので、モンペリエ近郊にお住まいの方はぜひ来てくださいね。

2012年2月28日火曜日

Un week-end pour le Japon

時が経つのは早いです。
あまりにも早くてびっくりしてしまいます。
前回のブログ記事更新からまもなく半年が経とうとしているのでしょうか?

皆さん、お元気ですか?
この半年でどんなことがありましたか?

私自身、この一年で起きたこと、たくさんのネタをためてきていますので、
いつの日か、またゆっくりと皆さんに届けれる日が来ることを期待しつつ、
今日はとり急ぎ、私の今一番の最新情報と言えば、これ。

フランス語しかありませんが、どうぞご覧ください。
http://www.unweekendpourlejapon.fr/

仕事のことはもちろんながら、私がこの一年、何に時間とエネルギーをかけてきたか、少し垣間見れると思います。

それではまた。

2011年8月6日土曜日

新しい大冒険!

皆さん、お元気ですか?


すっかりご無沙汰してしまいました。


前回の記事のアップから今日までの4カ月以上の間何をしていたかというと、いつも以上に仕事仕事仕事だったことも事実なのですが、ただでさえ十分に忙しかったところに、私は新たに大きな活動を加えてしまいました。

自分でもどうやったのかもうわかりませんが、休日もめったとなく、食べる時間も寝る時間もなくなった驚異のスケジュールをなんとかやりこなしてシーズンの終わりまで持ちこたえ、おかげさまでこの私も晴れて夏のバカンスに入りました。せめてここで一言だけでも近況報告をしておきたいと思って、本日の久々のアップになります。

さて、新たな大きな活動というのは何か。


それは前回の記事で行った呼び掛けに端を発した、東日本大震災の被災者支援のボランティア活動なのです。


私はこれまで、モンペリエの日本人とはあまり出会うこともなく、たまたま知り合う機会を得た人たちとごくごく限られた中で接してきていたのですが、震災発生から数日後に、そのごくわずかな数人の方に呼び掛けのメールをし、それぞれ周囲の方にメールを回して下さいとお願いしたのです。すると、驚くほどの速さでネットワークは広がりました。


もちろん、私は私で日本人サイドと並行して自分の同僚や友人、周囲のフランス人に話をしました。


すると話はあれよあれよいうまに広がり膨らみ、わずか数日で数十人の方が賛同の声をあげてくださり、本格的に支援活動をするならきちんとした組織を作った方がいいという周囲の勧めも受けて、震災から10日後には非営利民間団体であるアソシエーションを立ち上げることに至ったのです。


その名も「Association Solidarité Japon 34」。




アソシエーションというのが、まあ非営利の団体のことで、ソリダリテというのは「助け合い」のような言葉で、34というのは、モンペリエがあるエロ―県の県番号なのです。
モンペリエという街の名前を入れてしまっては、範囲がモンペリエだけに限られてしまう。実際モンペリエというのは小さいもので、私が働く音楽学校のある範囲なんかはモンペリエではないのです。そんなところから、せめてエロ―県全体をベースのエリアとして考えたシンプルなネーミングです。


略してASJ34(笑)

以来、支援を呼び掛ける活動とともに、皆さんからの信用を得られる団体になるべく、様々な行政上の手続きなどを同時進行で行ってきました。


この「日本の被災者のために何かをしたい!」という思いだけでつながったたくさんの人たちとの出会い。私の「ごえんのわ」はまた爆発的に広がりました。

そもそも、モンペリエは日本と縁もゆかりもなかった街で、日本人も数年前まで少なかったのです。しかも日本は世界超経済大国のひとつ。モンペリエの庶民の経済状況は厳しく、そんな豊かな、しかも遠くの国の支援までとてもしてられないでしょうから、こんな街で日本の被災者支援を行っても反応は厳しいかも知れないという覚悟もしたうえでの活動開始でした。


しかし、この4ヶ月間、精力的にできる限りの活動を展開した結果、たくさんの人々から想いが寄せられ、これまでにすでに200万円を超える金額が集まりました。


もちろん、一人でも1億円とかポイと簡単に寄付で来てしまう億万長者と比較したら微々たる金額です。でも日本となんの関係もない、しかも地球の裏側の地方都市モンペリエから、ほんの数カ月で200万円が日本の被災者のもとに届けられるというのは、私たちにとってとてもうれしい満足のできるものです。


しかも、私たちの活動はこれで終わりではありません。


この震災の被害の規模があのようなものなだけに、最初から復興の道が長いものになることはわかっていました。私たちは長期的な支援を送ることができる団体へと成長していきたいのです。


当然のことではありますが、世界のニュースは毎日めまぐるしく変わります。震災発生後の数日は、フランスのテレビでも東北のことばかりを繰り返し流していました。衝撃的な映像はフランス人にも強い印象を与えました。でも数週間後にはもう、メディアは東北のことを話さなくなりました。


しかも「日本は豊かな国だから一人でなんとかできるだろう」という一般的な考えを前に、私たちが長期的な支援が必要だと思って呼び掛けを行うには、その理由を明確に打ち出さなくいてはいけません。


そのためには、まず被災者の生活状況をこちらの人に知ってもらうこと。そのための情報をフランス語でまとめて提供すること。


口でいうのは簡単ですが、実際にするには労力のかかる作業です。こういう時、言葉の壁は本当に大きいですね。現実的にこの作業ができる能力を持つ人は限られ、しかもボランティアとしてやる気のある人、さらにはやる時間が現実的にとれる人、ボランティア活動のためにそこまでのエネルギーを費やす気がある人、、、、実際にはそう簡単には見つかりません。

でも、支援といっても何ができるのか、何をすべきなのか、集まってくれた皆さんと一緒にじっくり考えながら、たとえ小さくても、実際に形となった支援を被災者のもとに送れるよう、がんばっていきたいと思っています。

この4カ月の間には、もう本当にたくさんのことを経験しました。毎日が人生の勉強でした。

これまでに知らなかった人たちと一気に知り合い、「被災者のために」という気持ちだけを共通項として一緒に活動をすると決めたのです。しかしやはり人間は人それぞれ。フランス人と日本人、そしてそれ以外の国の出身の人だって輪に入ってくれています。言葉、文化、宗教、政治観などなど、何をとってもみんなそれぞれ違う人の集団。

私は言いだしっぺで発起人ということもあって、会の代表を務めさせてもらっていますが、会の中をまとめるということ、そして会の外とのコンタクトをとるということは一筋縄には行きません。しかも私も本職をこなしながらの限られた時間を最大限に使っての活動。時間が十分にとれないと、もっと丁寧に対応ができるはずのこともできないものです。本当に何から何をとっても、人生の勉強になります。

皆さんに報告したいこと、伝えたいことは、今まで以上に増えてしまいました。いくらでもネタがあるので、これから先、時間を見つけてはちょこちょことお伝えしていきたいと思います。

最後になりますが、私たちの会のサイトはこちら :

http://solidaritejapon34.org/Welcome

サイトの充実を目指して、日々努力を続けています。

私たちはフランスにいるので、フランス語がメインですが、英語と日本語も加えた3カ国語のサイトにするためにもがんばっているところです。時間があったらぜひのぞいてみてください。

先程、34はエロ―県を意味するとは説明しましたが、私たちの活動はエロ―県に限定されたものではありません。エロ―県から想いを発信しているというだけ。
実際、すでに日本に住むメンバー、日本に住む協力者も少しずつですが得ています。お互いに情報交換することで、具体的な支援の形が見えてくるものだと思っています。

私たちの気持ちを分かち合ってくれる人、活動に賛同してくれる人がいたら、どうぞ私たちの輪に加わってください!


2011年1月30日日曜日

みっしぇる~~

ふりかえってみれば、昨年2010年は素敵な出会いに恵まれた一年でもありました。

お伝えしたいエピソードがいくつかあるのですが、今日はそんな出会いの中の一つ、私がすっかりその人のファンになっちゃった話です。

その人とは11月末に出会いました。

オペラjrにとって、今シーズンの最初のコンサートを間近に控えたころ、今年度のために新たに迎えた2人の合唱指導者のうちの1人、しかも皆から評価され期待を寄せられているVが、病気発症が判明して、急きょ手術・治療を受けるためにお休みすることになってしまったのです。

9月以降、コンサートはVが中心となって準備をしてきていて、もちろんコンサートでも彼がプログラムの半分を指揮することになっていました。が、お医者さんに宣告された手術予定日は残念ながらコンサート当日。当然、誰が代わりに指揮をするのかという議論になりました。

が、そこでV自らが私たちに「○○に頼んでみる。」と提案してきたのです。

この○○さん、私は名前しか知らなかったのですが、60歳を超え、フランス音楽界では大ベテランで優秀なトップミュージシャンの一人として認識されている大物。バリトン歌手であり、パリ国立コンセルヴァトワールやラジオフランス児童合唱団でも長年指導をした人で、今日は経験豊富な合唱指導者・指揮者としても活躍しています。大物なだけに各地を飛び回るハードなスケジュールの持ち主。そんな人がモンペリエの子供・若者を指揮するために、わざわざ足を運んでくれるのか?とちょっと疑った私。

実はVは、フランスの南西地域であるプロヴァンス・アルプス・コート・ダ・ジュール地方の(Provence Alpes Côte d'Azur)合唱団で、○○さんのアシスタント指揮を長年務めていて、二人は信頼と友情で結ばれた間柄。

Vに深刻な病気が判明して、Vたっての依頼ということで、友情の名の下、この方はちょっと無理をしてスケジュール調整をし、金曜日から水曜日までを私たちのために空けるという決断をしてくださったのです。

出会う前からして、「へぇ~、またそんな大物の人と出会うきっかけをもらっちゃって、私ってラッキー。」と感じた私。いざ、入院を翌日に控えたVの立ち会いのもと、私はこの方と出会いました。

その方はミッシェル・ピクマル氏(Michel PIQUEMAL)。

この日は若者グループLe Groupe Vocalの練習の日で、ピクマル氏はまずはお手並み拝見というか、歌声を聞いて様子をみるという感じで、椅子にどっかりと座っていました。
彼は体格は大きくないのですが、ずっしりと落ち着いて口数は少なく、鋭い目で様子を観察していました。

そんな大物を前に、私はまだ若造だし外国人だし、ただのピアニストだし、大人しく静かにしていようと思っていたのですが、入院と治療のためにしばらく会えなくなるVに、和紙で作った折り鶴をプレゼントしたところ、それを見たピクマル氏が、「君、飛行機は作れるのか?」と聞いてきました。

「え?飛行機?あの一番簡単な飛行機のことですか?だったらもちろん!」と私が得意げに応えると、「すごくよく飛ぶやつだぞ?」と言ってくるので、「え、私の知ってるのは普通のシンプルなやつですけど、まあ良く飛ぶときは飛ぶし、飛ばないときは飛ばないし、、、。」とか返事してると、横からVが「leonardoの飛行機はどうせまた適当なやつだろう?」とからかってきました。

そこでピクマル氏が「俺の飛行機の作り方を見せてやるよ!」と言って、紙をちぎって、もくもくと真剣に折り紙にとりかかりました。

案の定、私たち誰もが知ってるあの紙飛行機ではなくって、なにやらあちこち折り返して真剣に作っていらっしゃいます。最後には端っこをちぎって何やら重さ調整をしてから、サッと紙飛行機をとばしました。するとさすが!よく飛ぶやつとおっしゃったとおり、彼の飛行機はなめらかに空をきってよく飛びました。

このひょんな出来事から、静かに控えめにしていようと思っていた私はすでに態度転換。
気がついたら「今日の思い出にこの飛行機にサインしてください!」と頼んでました。
彼は微笑みながら、飛行機にト音記号とか書いて飾り付けをしたうえ、grosse bises(英語ではbig kiss ですかね)と書いてサインしてくれました。

このやりとりですっかりうちとけた私たち。

この日の夜はVも含めて一緒に食べに行き、翌日からは土曜日、日曜日ともに一日中、3つのグループと練習し、月曜日にはコンサートを迎えました。12月にブログの記事でもアップしたコンサートのことです。

ピクマル氏が緊急のピンチヒッターとして指揮をしてくれたのは、ドビュッシー1曲とラクマニノフ3曲、そしてゴスペルの影響を受けたアメリカの合唱曲3曲とアメリカの現代女性作曲家の曲。
いずれもフィーリングと自由さが大事な作品ばかり。単に四拍子で規則的にずっと続くような曲とは全然違います。これまでの練習でVは彼個人のフィーリングで合唱を指揮してきました。ですから若者たちにはその色がついてしまっています。ピクマル氏はその色を感じとって尊重しつつも、自分のカラーでぐいぐい引っ張って行ってくれました。さすが子供、若者というのは順応性に富んでいるものです。彼らはしっかりと彼の要求に応えて行きました。

しかしピアノ伴奏で行うコンサートですから私の役目も大事。長いイントロで曲のムード、色はできてしまいますから。でも幸い、彼が行った変更、変化に私にとって居心地の悪いものは一瞬たりとなく、彼の要求に素直に自然に応えることができました。

なんといってもそれは彼が本物大物ミュージシャンだから。彼とのたった数日間のコラボレーションで、カリスマ性とはどういうものか、オーラとはどういうものかというのを改めて感じさせてもらいました。言葉は少なくとも、彼の呼吸で、彼のジェスチャーで、こちらは感じとれてしまうのです。共演者に、そして聞き手に何かを伝えることができる人というのは、こういう人のことを言うんだな、と深く感じました。

紙飛行機事件から、向こうはすぐに気さくなしゃべり方であるチュトワイエをしてきてくれましたが、私が自分は若造だし、、、と思って彼にヴヴォワイエでしゃべってしまうと、向こうもまたヴヴォワイエになったりして、どうもちょっぴり照れてぎこちない2日間を過ごしました。
が、月曜日の午後に一つ目のコンサートを終えたあと、お互いがっちりとハグしてビズしてメルシーとブラヴォーを言い合うと、彼が「助けてくれてほんとありがとう。君はすごく柔軟だね。うれしくなっちゃうよ。」と言ってくれたものだから、私は有頂天。ちょっぴり改まって「チュトワイエしても大丈夫だった?」と一言聞くと、「何言ってんの、もちろんだよ!」とニッコリしてくれました。

この日の夜のコンサートも無事に終了。
今年度頭からのドタバタスケジュールと様々な問題のせいで、このコンサートのでき具合はいったいどんなものになってしまうのやら、、、と私は真剣に心配していましたから、ピクマル氏が音楽性を吹き込んでくれて、エネルギーとカリスマ性で若者たちに魔法をかけてくれたおかげで、どんなに助かったことか。夜は午後のコンサートよりもだいぶいい出来で、みんな満足。
私たちは舞台上でがっちりと手をとりあってハグ。

一緒に共演すると、何かが通じ合うというのは本当のこと。
誰とでもというわけではなくって、ふと、ある人と一緒に演奏していて、一緒に呼吸して同じ一つのものを作り出す瞬間を感じるときがあるんです。息が合う、波長が合う、ということなんでしょうね。
お互い年齢も人種も文化も違うわけですが、このピクマル氏との出会い、共演は私にとってとびっきりうれしい出来事となりました。
もう「みっしぇる~~~!!」状態。一人ファンクラブ結成です。

この後、オペラjrのディレクターであるジェロームを含め、みんなで食事に行きました。
実はジェロームとミッシェルは20年以上前からお互いに知っている仲。そもそもヴァレリーの代わりを探していたジェロームにVを推薦したのはミッシェルだったのです。3人の男の間にある音楽と友情のつながりに感謝する夜でした。

となりに座ったミッシェルと私。ふと彼は、「俺の飛行機の作り方伝授しておかないと!」と言いだして、テーブルに敷いてある紙をちぎって、「真似をして同じのつくりな!」と言い、レストランの片隅で即席折り紙教室が始まりました。そして一緒に紙飛行機をレストラン内で飛ばす二人。

ふふふ。大物ミュージシャンは私の紙飛行機仲間。

3つ目のコンサートが水曜日に残っていたわけですが、彼はパリの区立コンセルヴァトワールでのレッスンと、彼がディレクターと指揮を務めるパリ地方合唱団のコンサートのリハーサルがあるために、翌日の火曜日早朝6時のTGVでパリに帰り、オペラjrのコンサートのために水曜日の午後モンペリエの戻ってきてくれるというスケジュールで一時お別れ。

本当にありがたいこと。
私はいつものようにこうしてモンペリエに住み、向こうの大物ミュージシャンが片道3時間半のTGVで移動をして、ハードスケジュールをこなしながら一緒に共演してくれる。

一生ものの思い出となる、素敵な出会いでした。


そしてみっしぇるネタは続きます。。。

2010年8月23日月曜日

やられました、へこみました、くやしいです。。。 in Firenze

この8月の9日間の北イタリア旅行での大ハプニングの御報告です。

私は一昨年と昨年と立て続けに北イタリアに行って、これまでに計3回訪れた大好きな国。「いいところだよ~。一度は行かないと~。」と宣伝をしまくったために、両親に「イタリアに行ってみたい。」とその気を芽生えさせてしまったのでした。そして、どうせモンペリエから3人で行くのならば車の方が便利で安くつくでしょうということで、ちょっぴり不安はかかえながらも親子三人ドライブ旅行の計画を立てたのです。

母親が日本からモンペリエまで来る上にそんなに長い旅行はあまりしたくない、と希望を出したのですが、イタリアは見所がいっぱいの国。せっかく近くを通るのに寄らないのはもったいないと思ってしまうような場所ばかり。両親だってこれがもしかしたら一度きりのイタリア旅行かもしれないのだから、できる限りは味わってもらおうとあれこれ提案していたら、かなりの町の数に。私は旅の疲れのことも考慮して、「せめて一か所か二か所で2泊してゆったりするプランにした方が絶対いいよ。」と勧めたのですが、「美術館とかは行かなくていいし、一泊で十分。」と言われ、プランを練った結果、北イタリアを惜しみなく回って9日間という案で仮決定をしました。

モンペリエを出てからフランス・コート・ダジュールを通って国境の町マントンで一泊。ジェノバを見学してピサで一泊。フィレンツェで一泊。ボローニャを観光しつつパドヴァで一泊。ヴェネチアで一泊。ヴェローナで一泊。コモ湖畔で一泊。ミラノとトリノを観光したのち国境を越えてフランスはシャンベリーで一泊。そしてグルノーブルを見学しつつ帰路に着くという計画。
すごいでしょう?つまり毎日長距離を移動しつつ観光をするという、言うなれば思いっきり日本人の旅行ペース!
こんなプランをフランス人の友人にでも言ったなら、みんなあぜんとした顔をしてきます。
「ま、100%日本人と旅行をするのだから、これは避けれないでしょう。à la japonaise (日本流に)」と私。
旅行のプラン、ホテルの予約、運転、通訳、すべて一手に引き受けるつもりで準備をしました。

きっと両親はあまり自覚していなかったのだろうけど、イタリアはスリや泥棒で有名な国。スピード狂まがいの運転の激しさも有名ですが、私としては運転中のことよりも、車を駐車している間の車自体の安全が気がかりでした。
そのため、町の中心地まで歩いて行ける距離で、しかもきちんと敷地内に駐車場を確保しているホテルに限定して選んだのです。町に車で出ていく必要がないようにと。

しかし、自分たちで決めたフリープランの旅行中に変更事項が加わるのは当然のこと。
そのために不幸はルネッサンスの都フィレンツェで起きたのです。

旅の2泊目は斜塔で有名なピサでした。
午前中に町の見学を済ませてすぐに移動して、フィレンツェには昼ごろにつくつもりでいた私。
でもピサにつくなり、父親が「レオナルド・ダ・ヴィンチの生まれた村がこのあたりにあるらしいけど、どこかなあ?」と尋ねてきました。
地図を見てみたら、ちょうどピサとフィレンツェの真ん中あたりにヴィンチ村を発見。

実は我が家は一家そろってダヴィンチのファンなのです。
だから寄らないわけには行かなくなりました。
行ってみたら行って正解の素敵なところで大満足した3人。

その後、フィレンツェに向かったわけですが、予定を大幅に上回って15時過ぎ。
ホテルに荷物を置いてすぐさま町に出たのですが、ドゥオーモに着いたときにはもう閉館となってしまっていました。予定では翌日の朝にはフィレンツェを発つことになっていました。
私はもう過去に2回見学したことがあるドゥオーモですが、両親がフィレンツェまで着ておきながらドゥオーモの中に入らずにフィレンツェを去るというのはなんとももったいない話。そこでまた予定変更。翌日の朝、再び町まで来てドゥオーモを見学しようということになりました。

さて、私が選んだホテルはボーボリ公園の裏手の丘の上にある素敵なお屋敷ホテルでした。この丘一帯にかつての立派なお屋敷が並んでいるので、優雅で高級な香りがする一等地です。
ただ、坂道がかなりきつく、町まで徒歩20分と聞いていたのですが、実際にはもうちょっと時間がかかる距離でした。そこで、日本からの長旅に続けてのこの強行スケジュールで疲れている両親は、一度この坂道を下りで味わっただけで、「この道はもう二度と歩けないわ。」と言いだしました。

町を散策した後はバスでホテルに戻ろうかという流れになってはいたのですが、選んだレストランの位置からバスが出る駅はホテルとは逆方向で結構遠く、バスの路線自体大外周りをするので、「もうこのままゆっくり歩いて帰ろうよ!」と私が主張。
結局、行きのような急な坂ではないにしろ、かなり長い道のりをてくてくと歩いて丘の上のホテルに戻ったのでした。

最初のハプニングはこの夜に発生。
疲れがたまったのかストレスがたまったのか、父親が何やら心臓が痛いと言い出してひと騒動。母もこんなの初めてで驚いて、救急車を呼ぶか呼ばないかのひと騒動に。
幸い時間とともに様子はおさまっていってみんな眠りについたのですが、とりあえずは翌日の朝早く起きて町に歩いて出かけるという案は消え去っていました。

一夜明けてゆっくりめに準備をし、邸宅ホテルのバルコニーでおいしい朝食をとりました。時間的に、これから町に出てまた戻ってきてというのでは12時のチェックアウトには到底間に合いません。もう今ここでチェックアウトをすませて、荷物と車とともにホテルを発つことにしました。

ツアコンの私としては、まずフィレンツェの町が一望できる高台の広場へご案内。
人手がいっぱいのここの駐車場に車を置いて、バスで町に出るのはどうかと提案してみました。でも父は乗り気でなく、結局は車で町の中心地まで出ることになりました。

さて、どこに車を置くかが問題です。
私はもう二回来てた町だし、なんならドゥオーモの近くで二人を降ろして見学してもらって、私は車で待ってるというのでもよかったのです。
でも、街に着いてみたら、意外と路肩のメーターパーキングが結構あって、みんな普通に利用している様子。今思えば、ここら辺から私の危機感がちょっと薄れてしまっていたのですね。
ベッキオ橋の近くまで行くには一方通行とかでちょっとややこしかったので、サンタ・クローチェ教会に近い川沿いで車を泊めることにしました。周りには観光客や地元の人やらが普通にメーターパーキングのチケットを購入して車を離れていました。
私は両親をちょっと先でおろしてから駐車する場所を探しながら川沿いをちょっと戻って無事駐車。結構立派なホテルの向かい。

私は麦わら帽子をかぶり、身軽な恰好でさっそうと街に向かって歩いていったのです。

この時点で私たちは大きな大きな過ちを犯してしまっていました。
それは車に残した荷物のこと。
実は、イタリアはもちろん、フランスでも車を離れるときは絶対に荷物を残していくな、という原則があります。どうしても残さざるをえない時は、必ず外から見えないところに隠すこと。このことはモンペリエでも当たり前の大原則で通っています。
しかし、私の小さな車のトランクに3人の9日分の荷物が全部入りきるわけもなく、私の小さなボストンバック一つと父親のショルダーバックがクーラーボックスやおかしバックとともに後部座席に置かれていました。
そもそも私の考えていた旅行のプランでは、町を観光するときは車はホテルの敷地内の安全な駐車場にある予定でした。3人の荷物がどれくらいになるかは旅行出発の日になってみないとわからず、まあ思っていたよりも荷物が多かったというわけです。

でも、このフィレンツェで車を離れるとき、せめて隠す工夫をするなどなにかをするべきでした。
もともと100%日本人の両親にそんな危機管理を思いつく習慣はないわけで、いつもきちんと考えてる私がするべきでした。
それなのに!この時この瞬間の私は両親をちょっと先で待たせていることもあって急いでいたんですね。

なんで私がこんなことをつらつら書いているかと言うと、だってだって、町の観光を終えて車に戻った私たちが目にした光景は、、、




後部座席の窓の破壊。。。



ドアを開けてみたら、その振動で残っていた窓ガラスはガラガラガラと崩れ去って行きました。
こうなると単なる破壊ではなくって、全壊なのが見てもらえるでしょうか?もう窓ガラスはありません。。。

ふと見て最初は「???」の反応で、続いて「!!!」の反応で、そのあとでようやく一つの事実に気がつきました。「私のカバンがなくなってる~~~~~~!!!」

ああ、やってしまいました。やられてしまいました。。。

そういえば、明らかに怪しい移民のグループがそこらへんにいるではないですか!
明らかに怪しい人たちが怪しい絵とか並べて商売をしようとしてるではないですか!どう考えたってあんなの売れるわけがない!

ああ~~~。
彼らからみたら私はまるでカモだったことでしょう。
まだ新しいかわいらしい車で、フランスナンバーで、しかもアジア人。
車の外からは私のボストンバックが丸見え。

あああ~~~。なんというへま。

私の車には防犯システムがついていたのに!
犯人は振動も与えずに窓を破壊する術を知ってるってことですよね。。。

外国人でマイカーで旅行中の身。
茫然とした後で、車の保険のことを考えないといけないとわかり、携帯電話からまずはアシスタントサービスに電話。ちょっとがっくりきたのは、車が動く限り、大したアシスタントサービスはないというところ。
はあ、まあそんなもんか、所詮保険というものは、、、。
でもこういった被害が多いおかげで、私の車もあらゆるリスクをカバーした保険に加入していました。そのため窓ガラスの修理はカバーされます。ただ窓の修理をここでするのかモンペリエに帰ってからするのかという話に。このときの私には、この壊れた窓のまま旅行を続けて、モンペリエまで帰るなんて驚く話で、考えることもできませんでした。
いずれにせよ、とにかく地元の警察での被害届をしておかないといけないとのこと。
修理のことは後回しで、まずは警察行き。でも警察に現場を見てもらわないといけないのか、自分から出向かないと行けないのか???

パトカーでも通るかと思って数分待ってみたけど通らない。
私はため息とともに向かいにあるホテルに助けを求めに行きました。
ロビーにいたホテルマン3人を相手に変なイタリア語と英語まざりで状況を説明して警察が必要だと訴えました。
すると、困った顔の私に一人のホテルマンは真剣な顔つきで私と一緒に外に出て、現場を見に来てくれました。で、警察の話になると彼が電話をしてくれるといい、二人でホテルのフロントに戻りました。
イタリアもフランスと一緒で、警察のような組織が2つに分かれてるんですね。彼もちょっとその二つの間でたらいまわしにされ、結局は私が現場を離れて出向いてよいということを確認してくれました。前情報として、「英語とフランス語をしゃべる日本人女性。」と私のことをあちらに伝え、私には地図で現場の位置、警察署の場所、そこまでの車での行き方と問題なく駐車できる場所まで丁寧に教えてくれました。
こういう人のサポートは不幸中の幸いです。

今回の私には不幸中の幸がもう一つありました。
実はいつもモンペリエのオペラ座でお世話になっているTさんが、このときフィレンツェにいたのです。というのは彼は3人の娘さんが今もフィレンツェで暮らしているので、バカンスの度にフィレンツェに里帰りしているのです。で、今回は同じ時期にフィレンツェにいることになるとわかっていたので、連絡し合って会おうという話になっていました。
でも、私たちの予定変更に加えあちらも何かハプニングがあったみたいで、結局は会えないままに。
このハプニング発生のちょっと前に、私から「じゃあまたモンペリエで~。」というメッセージを留守録に残したばかりでした。
さすがに警察に行かねばならないこととなって、英語やフランス語で通じるのか怪しいところ。気休めにでもと思ってTさんの携帯に起きた出来事を伝えておきました。

警察所に近いところで車を止め、両親をそこに残し、私は歩いて一人警察に向かいました。
入口っぽいところで警官らしき人が二人しゃべってるから、今度は英語で「あの~、ここ警察ですか?入口ここですか?私入って行ってもいいですか?」と尋ねました。
すると今度もまたとても真剣な表情で「どうしたんですか?」と聞かれ、状況を説明。
彼はちょっぴり英語をまじえたイタリア語で私に対応し、部屋の中に通されて、被害届の用紙に記入するように言われました。

そこへTさんから電話が。「どうしたの!?」と。
「ええ==!!かわいそ~~!」と言いながら、Tさんは窓の修理に関しては、時間がない私たちのことを考慮して、プラスチックの何かで応急処置をして、モンペリエに帰ってから修理をした方がいいよとおっしゃる。「保険のことだって外国間では時間がかかるし。」そう言って、日曜大工の店の名前や場所まで言ってくれたのだけど、私としてはこの先も高速道路を走るし、まだ旅は前半のわずか3日目。とてもプラスチックの何かで旅行を続けられるとは思いませんでした。
そんな私にTさんはフランスにもある窓ガラス修理店の住所や電話番号をメールで教えてくれて、「がんばってね!気をつけてね!」と電話を切りました。

被害届に書き込んでいる私ですが、どうもボールペンでぶっつけ本番で書いていても、あとからあとから、「あ、あれも書かなきゃ、これも書いておいた方がいい。」と思うものがどんどん出てきて、フランス語で書いてる私の書類はなんだか無茶苦茶に。
そこへイタリア人警官は私をおちょくりながら、もう一回きれいに順番通りに整理して書き直してくれと言ってきました。それもそのはず。大事な書類なのですから。

そんなこんなで私のイタリアの警察初体験は長びいていました。

するとそこへまたTさんから電話。「今どこ?」と。
「まだ警察です~。」と言うと、「それどこ?今から行くから。」とおっしゃる。
「え?まじですか?」と驚き、とっさに地図をみて大体の場所を告げると、「わかった!すぐいくから。」とTさん。でもすぐって、今彼はどこにいて、何でどうやってくるのだろうか?で、質問すると「バスで行くから、15分くらい!じゃね!」と電話を切ってしまわれました。

時間はかかったけど私も書類を書き終わり、保険のことなど確認のために質問してから、「あの~、イタリア語をしゃべるフランスでの友人が今から来てくれるというので、ここで待っていてもいいですか?」と聞くと、「ああ、もちろん。あなたの好きなようにしてくれていいんですよ。」と言ってくれました。
Tさんが来たときにわかりやすいように外で待ってることにした私。

ああ、そういえば、両親は壊れた窓と共にちょっと離れたところで待ってるんだった。
なので、一応電話で状況を説明。

それから待つこと15分か20分でしょうか。
遠くにスクーターが現れ、すぐにそれがTさんだとわかり「お~~~~~い!!」と手を振る。

なんだかどっかのおやっさんのようないでたちで現れたTさん。
もう警察での用事は済んでいたわけだけど、一応あいさつを、と思い、それに英語まじりのイタリア語によるやりとりだったから、Tさんに確認をしてもらおうと思って建物の中にもう一度入って私の担当をしてくれた人に会いに行って一件落着。

Tさんは「ゴムテープとかプラスチックのシートとか、必要なものを一応もってきたんだけどさあ、まあとにかく車に行こうよ。」ということで、スクーターの後ろに乗っけてもらって両親が待つところまで移動。

まさか、フィレンツェの街をスクーターで、しかもTさんの後ろにのせてもらって、しかもこんな状況で走るなんて夢にも見てませんでしたよ。

木陰に泊めた車の中で、うちの親は茫然としてるんだか疲れてるんだか動かない。
スクーターで横に乗り付けて「お~い!Tさんだよ!」と叫ぶと二人ともあわてて車から降りてきました。

「leonardoがいつもお世話になっております。」とごあいさつ。
それにしてもねえ、こんな状況で双方を紹介することになるとは!

Tさんは親の前で改めて、「旅の途中で時間がないんだから応急処置をしておいた方がいいよ。」と勧める。
私は彼がプラスチックの何かと言ったときは、てっきりプラスチックのボードか何かと思ってたんですね。
でも、実際は大きなゴミ袋のような業務用の透明シート。
「。。。う~ん。。。これでこの先の旅を続けるのか???」とまるで疑っている私ですが、経験豊富なTさんが言うんだから、まあ彼が言うようにお願いすることにしました。
彼は手際よく必要なものを取り出し、シートを切っていきます。
「ティッシュと水ある?」と言って、ゴムテープとシートをしっかり湿らせます。これで粘着度があがってぴったりくっつくのだそうな。
「内側からもして二重にしとく?」と聞かれ、「ええ、お願いします。」と半信半疑で何がなんだかあまりわからないまますべてお任せしている間に完成しました。

ビニールシートによる窓ガラスです!




外側からと内側からと。正真正銘の二重窓です!


日本人には考えられない窓ですよね。
これで旅を続けるなんて、想像できますか?
Tさんは日仏のハーフだけど、この窓を手際よく作ってくれる姿をみて、「ああ、やっぱりこの人はこっちの(ヨーロッパ大陸)の人だ。」と思いました。
だって、こんな窓、日本人には発想できるものではありません!

しかも何が素晴らしいって、結局このビニールシートの窓は時速120キロにも耐え、風にも耐え、雨にも耐え、最終的にはモンペリエまでこのまま帰還。窓の修理をしてもらえるまでの間、合わせて2週間近く生き延びたのです!

いやあ、Tさんにはほんとは町案内やおいしい店を案内してもらうはずだったのに、こんなことになって、「いつでもどこでもなんでも直します屋さん」として来ていただいてしまいました。
聞いてみれば、彼は彼で蜂蜜取りに精をだしていたらハチ3匹にさされてしまって大変だったとのこと。
そんななか、スクーターで郊外からかけてつけてくれたTさん。
さらにこの後、旅路を急ぐ私たちに気をきかせ、インターの入口までスクーターで誘導してくれました。

ほんとにほんとにありがとうございました。

ホテルマンと言い、警官といい、Tさんまで。異国の地での困った時のサポートやちょっとした態度はありがたいものです。
盗られたものは戻ってこないだろけど、これでも不幸中の幸いかな。

人類の遺産の宝庫であるイタリアで、よその国から来た貧しい人々が、よその国から来てスキのある人たちを狙って盗みを働いてる。残念だけど、それがイタリアの現状。

「ここは日本とは違う。」と、モンペリエに来た当初から防犯意識は高かったはずの私ですが、やっぱりモンペリエ生活で徐々に慣れて行く中で、意識がぽけ~っと薄まってしまっていたのですね。

今回のことでガツーーーーンとやられてしまいました。
もちろん貴重品は盗られたカバンに残してなかったけど、服やらサングラスやら手帳やら身の回りの品々。まだ整理してなかった写真のメモリーカードを盗られたのも悲しい!銀行の口座番号とかいろいろな暗証番号をメモっていた手帳もとられたので、念ためにこれから注意してみていかないと。携帯電話やカメラのバッテリーや充電器も盗られてしまった。どうせ盗んだ人にとったら面白くない代物。すぐにどこかに捨てられ終わりなのかなと思うとやりきれない。全部で600ユーロ相当程度のものだったとしても、個人的なものや思い出の品ばかりだもん。600ユーロを現金で生で盗まれた方がよっぽどよかった。だって、働いて取り返す!と思えるもん。。。

母は、「もう起こってしまったことは起こってしまったこと。」と言うけれど、やっぱり自分の一瞬の隙がくやしい。
これも人生の勉強ですね。経験して身をもって体験してイタリアの盗みの評判は本当だったと確認できた。

「イタリアで車の窓を破壊された~~!カバンを盗まれた~~!」とフランス人に言うと、みんな「え=ほんとに?!」と気持ちをわかちあってくれると同時に、「でもイタリアはそれで有名だから、評判通り期待にこたえたってことか。」と言う。そして「外から見えるところにカバンを置いていったの?!」と呆れ顔で説教をしてくる。保険会社の人も今はもう車上荒らしで盗られたものに関して保障する会社はないと言ってきた。それだけ横行しているから。で、同時にみんな車にものを残しておいてはだめだとわかっているから被害は減ってきたという。「あなたの不用心が落ち度と言わざるを得ない。」とまで。ま、もちろん私が状況を説明すると、「もちろん、いつでもこうするより他なかったということはありますしね。」とフォロー。

ま、やっぱり治安、犯罪傾向、犯罪状況は日本とは違いますね。日本人は平和ボケしていると言われるのも無理ないか。

この先、防犯体制200%強化するのに間違いはありません。
大変長い報告でしたが、皆さんも改めて気をつけてくださいね。

2010年7月28日水曜日

熱中症 in Paris

ラジオフランスのフェスティバルのリポートが続いていますが、実は私、今日をもって今年度の仕事がすべて完了しました。

晴れてバカンス突入です!

フェスティバルももうすぐ終わってしまうのですが、レポートはゆっくり続けるとして、今日は7月頭のプチバカンスの時のお話。フェスティバルの仕事をし始める前にちょっぴりパリに行ってきたのです。

2009年9月から2010年6月の今年度、自分でも驚くくらいにたくさん仕事をもらってよく働き、日本に帰省した年末年始の14日間以外でお休みらしいお休みが全くありませんでした。

9月から6月までで完全オフの日が15日もなかったのですから、二日連休なんてのはありませんでした。

それが、7月頭に4連休が確保できたのです!

たいていの私なら「家でゆっくり寝てぐうたらする。」と思うところですが、気分を変えるためにどっかに行こうと思い立ち、気がついたらとある日の夜中にパリ行きを決め、インターネットで電車のチケットとホテルをおさえてしまっていました。

いつもならパリに出るときに泊めてもらう友人や連絡をとって会う友人がいるわけですが、今回は例の「アンチフランス人月間」真っ只中だったことや、本当に気分を変える必要があったために、あえて誰にも前もって連絡はいれずに、ホテルをとってパリでの休日を過ごそうと思っていたのです。

ホテルに選んだのは、パリ・リヨン駅からも遠くないバスティーユ東側エリア。



もしかしてホテルでごろごろして終わったりして?!なんて恐れもちょっとあったのですが、そんな心配はなんのその、俄然元気でパワーがあった私は、パリの街を歩き回りました。

パリのメトロはあの悪臭と空気が大嫌いなのでメトロには乗らず、もっぱら歩きで、どうしても時間を稼ぐべき時だけバスに乗りました。

観光もし、ショッピングもし、パリ散策を満喫した私でしたが、一つだけ問題が。

それはこの週の気温の高さ。

実はこの週、各地で猛暑の恐れは発表され、警戒をよびかけている最中でした。モンペリエはもちろんのことですが、パリでも高温が記録されて、連日37度とかになっていたのです。パリはやっぱり都会だから人も多いし車とかによる空気の汚染も進んでいる。

その中での私のこの張り切りよう。
普段は水分をあまりとらない私が、どんだけ水を飲んでものどがかわき、肌もほてって干された感じ。

そして3日目の土曜日に落とし穴がありました。

朝から雷雨で一荒れしたかと思うと、あっという間に気温が下がり、ノースリーブはもちろんのこと、半袖、七分袖では不十分ですごく寒いことになってしまったのです。真夏の恰好しか用意していなかった私は肌寒さを感じながら一日を過ごしました。

で、異変はすぐに起こりました。
だるさ、頭痛、咳はともかく、暑くて暑くてしょうがない。

この日は早い目に休もうとしましたが、なんと39度を超える熱が出てた!
低体温の私には高熱です!気を失うようにして寝入りました。

寒さで身体が冷えたから風邪をひいたのかとその時は思ったんですけど、あとから考えたら明らかでした。あれは熱中症か日射病と言うやつですね。日射病はフランス語でinsolation と言います。
異常な暑さとほてり。

幸い翌朝には微熱まで下がってたんですけど、だるくって意識がぼんやり。

この日は月の第一日曜日で、ほとんどの美術館が入場無料になる日だったのです。
美術館は普段行かない私でしたが、これを機会にパリで興味がありつつもまだ言ったことがなかった美術館巡りをしてからモンペリエに帰ろうと思っていました。
残念ながらそれも体調不良により断念。

以前モンペリエに滞在していた日本人仲間のNちゃんと会ってゆっくり過ごしたのですが、やっぱり時間がたつにつれてまた体温が上昇していくのが感じられました。
解熱の効果もある薬を飲み、Nちゃんからはありがたかく「冷えピタ」を頂き、帰りのTGVでは人目も気にせず堂々とおでこに日本製「冷えピタ」をべったりと貼って帰ってきました。

これでまた一旦は熱もおさまったかと思ったのですが、翌日朝からまた連日仕事。月曜日の夜にはまた40度の熱になってしまいました。
しかも、この週は毎日朝から仕事のかわり、私にしてはめずらしく夜が空いていたために、前々から食事に招待されたりパーティーが計画されていたのです。
結局、私は思いっきり病人のくせに仕事も休まず、さらには食事会やパーティーにもふらふらしながら参加したのです。他の人にはいい迷惑でしたね。。。

そんなこんなで今回の体調不良は長引いてしまいました。

それにしても、久しぶりのせっかくの休みで身体を壊すというのは、ほんともったいない話です。
積もり積もった疲れの反動でこうなったのでしょうね。

健康第一は本当です。
来年度のペース管理への教訓として、しっかり心に刻んでおきます。

2010年7月7日水曜日

Molière

いつもより遅い夏だと思っていたら、あっというまに猛暑になってしまいました。
明日は38度まで気温が上がるとか言ってる。。。

さて、もう7月も一週間が過ぎてしまいました。
毎年恒例のラジオフランスのフェスティバルの話題に入る前に、少しでもたまっている記事をアップしておけたらなあと思っています。

もう2カ月も前の話ですが、優れた演劇の舞台作品や出演俳優に贈られるMolière モリエールという賞の話をしていたのを覚えていますか?その中のカテゴリーで子供や若者を対象とした作品を「Jeune Public」と言うのですが、私はそのセレモニーに参加したのでした。

セレモニーに前日に会場へ足を運び、ホスト役のディレクターさんたちと顔合わせをしたときのことはお伝えしたので、今日はセレモニー当日の様子です。

前日には普段通りの姿だった会場が、当日の夕方にはいろいろと飾りが施されて、小さな劇場ながらもセレモニームードが高まっていました。中でも「おお!」と思ったのが赤いカーペット!




別に誰がここを歩いてどうのこうのというわけではないけれど、一応正門から正面玄関まで、赤いカーペットがしかれていたんです。

ホール内部に入ってみると、今度はこの季節の花である「ココリコ」で飾られていました。フランスでは春になるとどこでも見かけることができる赤いシンプルなかわいい花ココリコ。これはケシの花なんですね。私は日本で見たことがありませんでしたが、こっちにきてからのお気に入りの花の一つです。
白いブランコにも、黒いピアノにも、意外と赤いココリコが似合っていて、シンプルでささやかながら、まずまずのデコレーションかなと思いました。



ホールに内には何やら関係者の方たちがいて、みなさん大事な役職や役目がある人っぽいですけど、こっちからいちいちと「どなたですか?」とも聞けず、「こんにちは~、私、今日のセレモニーでピアノを弾く者です。。。」と自己紹介させてもらい、みなさんが温かく迎え入れてくれました。
どうやらマグロンの市長さんや、パリからやってきたモリエールの組織のえらいさん、そしてスペシャルゲストの俳優さんたちのようでした。

みなさんはセレモニーを目前に控えて大事な打ち合わせを続行中。

それをわきめに私は今更ピアノを触ったところでどうにかなるものでもないし、、、というタイプなので、ひたすら観光者ぶっていました。

そしてテーブルの上に置かれた金色に光るものに注目した私。

皆が準備にせわしく走り回っている中、一人カメラを手にして舞台に上がって至近距離から撮影。



そうです。これがモリエールのトロフィーです。
ハリウッドのアカデミー賞ならオスカーのトロフィーといったところですよ。
もちろん、サイズはどのカテゴリーにも同じものですから、これまでにフランス演劇界を代表するそうそうたるメンバーがこのトロフィーをもらってきたのか~、と感慨深く、まじまじと見ていました。

入賞作品を紹介する子供代表や、ブランコにのって揺られるおちびちゃんたちも、最終チェック。




そんなこんなで、セレモニー開始の15分間になりました。
言われていた通り、私がスタンバイすると舞台のカーテンが閉じられ、お客さんたちの入場開始。そして私のピアノ演奏開始。
セレモニーに開始までの15分間くらいと言っていた演奏時間ですが、遅れてくる人がいるのはいつものことで、誰ももうすぐ終わりと言いに来てくれないから、私は一人ひたすらと用意してきた曲を弾き続けていました。
軽く倍の30分にはなったかと思います。式の開始をドキドキして待っていたのはホスト役のディレクターさん。私の横でそわそわと落ち着かない様子。
それもそのはず、だってこの劇場の歴史に大きく刻まれる一大イベント。しかもパリからもえらいさんたちがきて、テレビ放送に使うために最初から最後まできちんと撮影されるのですから。

そこへこういった環境にはなれっこのスペシャルゲストの俳優さんがやってきて、私に「ワルツでも弾いてよ。」と注文してくる。私もすぐには曲を変えれないから、「この曲が終わったら弾きます。」と言って待ってもらって、しかもワルツはさっき弾いたばかりで他には用意してきていなかったもんだから、4拍子の曲をむりやり3拍子にアレンジしてなんちゃってワルツを演奏。
すると俳優さんとディレクターさんが私の横でずんちゃっちゃと踊りだしました。

そんなこんなでようやくセレモニーの開始となりました。

さっきまで緊張していたディレクターさんのあいさつでスタートなので、私は演奏をフェイドアウト気味にシンクロナイズさせて終了。

こういった公式のセレモニーではどこの国でも同じ感じ。
来てくれた人を歓迎する言葉、お礼の言葉が続き、そして「jeune public」にかけるこのマグロンヌの劇場のモットーや情熱などを述べられて、えらいさん方のスピーチへと移りました。

ここでまた私のお役目。

ディレクターさんが、「マグロンヌの市長、○○氏!」と言うと、私はなんちゃっての短いオリジナルパッセージを弾いて、市長さんが壇上に上がるのに合わせて弾きます。

市長さんがスピーチを終えて拍手がわきあがると、またなんちゃってのパッセージで彼が自分の席に戻るのを音楽でお供。

モリエールの組織のえらいさんとかのスピーチもあって、計4回のなんちゃってパッセージ演奏。
これは我ながら気に入って面白がりながら弾いておりました。
なんせ、私一人舞台の閉じられたカーテンに隠れたままですから、気楽です。

4人目、最後のスピーチが終わると、いよいよ入賞作品の発表、紹介です。

ここで私が新たにピアノ演奏を始め、それと同時にカーテンが開かれました。
私とお客さんの出会いの瞬間です。
というか、お客さんにとったらカーテンの向うから聞こえていたピアノの主が黒い髪のアジア人だったというのは、意外とちょっとした驚きだったり予想がいのことだったりしたりするんでしょうか。

私の演奏と同時に小さな女の子4人が客席から壇上に上がってブランコに座ってこいで、舞台上のスクリーンにはココリコの花の映像が映し出されました。
この場面にディレクターさんが選んだ曲というのが、シューマンの子供の情景の第一曲「異国から」でした。私も慣れ親しんだ曲ですから暗譜で繰り返しとかも適当にしながらリラックスモードで終了。

ここで一旦私は引き下がりました。

舞台上では子供代表とスペシャルゲストの俳優さんが入賞作品を紹介。
アカデミー賞でも見られるように、作品名が読み上げられて、作品の抜粋がビデオ映像で紹介されました。

その間、私は舞台袖で舞台技術のお兄さんとなぜかそこにいたおちび二人とぼーっと待っていました。
おちびには「あなたがピアノを弾いていたの?」とか聞かれて、「そうだよ~。」と答えたり、何気ない会話をひそひそ声でしていました。

すると、おちびのうちの一人に出番がやってきました。

実はその子はパリから来たえらいさんの娘さんで、今夜の受賞作品の名前が入った封筒を舞台まで持って行くという大事なお役目があったのです!

白いワンピースを着た彼女が舞台に現れると、「あら~、かわいい!」と言った感じで笑いと拍手が沸き起こりました。

受賞作品が発表されて、出演者、スタッフが壇上に上がり、喜びのスピーチ。

会場は大いに盛り上がっているわけですけど、なんせ私は舞台のそでにいるので、誰の顔も見れないし、誰がなんだかまったくわからないまま時間が過ぎる。

そして打ち合わせではあまりはっきりしていなかったけれど、私の演奏でセレモニーが終了と言われていたので、もうすぐかな?もうすぐかな?とスタンバイ。
でも、「こうなったら舞台に出てきてね。」と言われていた状況にならないので、舞台袖にいた舞台技術のお兄さんにも質問。「あの~、私はいつになったら舞台にでないといけないのかわかりますか?」
彼は舞台正面の音響ミキサー室にいるチーフに質問。
結局、誰もはっきりとわかっていなかったうえに、舞台上の展開が予定と違う風になっていたもんだからてんでわからない。ここはもうフィーリングで、ということで、なんちゃっての私の再登場。

ピアノの席についたはいいけれど、「こうなったらピアノを弾いてね。」と言われていた状況になる気配がない。。。。。
しかも予定にはなかったのだけれど、「意見交換の場にしようではないですか!」と言いだした俳優さんのリードで、セレモニーはそのまま討論会の様相に。

「あれ?このままではどうしたらいいんかな???」と思いだしたところで、一応受賞作品のスタッフたちが舞台から降りようとしたのを見て、「いまだ!」とタイミングをとらえて最後のピアノ演奏に入った私。

するとそこで、「あら、そうだったわ!」と言わんばかりに、緊張してテンションあがりっぱなしだったホスト役のディレクターさんが、私のことを紹介してくれました。
私の演奏に合わせて、また俳優さんがディレクターさんをダンスに誘い、そんなこんなでセレモニーは終了。
演奏後には私にも温かい拍手をいただいたので、私も「どうも~。」とお辞儀をさせてもらいました。

さて、セレモニー自体が終了すると、今度は立食パーティーのソワレに突入です。

私は一人だったけど、うろうろとしながらワインやおいしいおつまみやデザートをいただいていると、左から右から、いろんな人が声をかけてきます。

モリエールの組織のえらいさんマダムもわざわざ私のところまでやってきてお礼を言ってくれました。

お客さんたちも「ブラボー。」とか「メルシー!」はもちろんのこと、「暖かくて素敵な演奏だったわ。」とか「素敵な選曲だったわ。」とかいうちょっとしたコメントをくれる人、さらには私の身の上話まで発展する会話を持ちかけてくる人も数人。さすがフランス人、さすが南フランス人。みんなおしゃべりの術にはたけてますよ。
子供からお年寄りまで、女の人から男の人まで、いろんな人がリアクションを見せてくれて、とてもいい感じのソワレとなりました。

中に一人、「よくぞ弾ききった!素晴らしい。こうでなくっちゃね。周りが予定と違うことを始めてもやるべきところでやらないとね。」と事情を知っているようなムッシューが声をかけてきました。態度や服装からしても、この業界のえらいさんぽいけど、私は誰が誰なのかまったくわからないまま。

幸い、オペラjrで一緒のEが、「あれはシャトー・ドーのディレクターよ。」と教えてくれました。

うん、やっぱり業界のえらいさんたちはいるところにいるもんです。
私がしていることも、どこで誰が見ているか、見てくれているかわからないもんだということか、と思いました。

飲み物の食べ物もひと通り頂いたところで、一人身だし、これ以上話すことも話す相手もいないし、ということで帰ることにした私。ディレクターさんをはじめ、えらいさん達にこの日のお礼を述べて会場を去りました。



2010年6月19日土曜日

新しい職業?

気がついたらもう6月も下旬。

なんてことでしょう。昨年末に日本に帰省してからというもの、あれよあれよと仕事をこなしているうちに6カ月が過ぎてしまいました。あっという間でした。。。

フランスでは学校やスペクタクルの世界は9月始まり6月終わりのサイクルなので、ただいま年度末なわけです。高校3年生は今週バカロレア(高校卒業資格のような全国統一試験)を受け、中学生3年生にはまもなくブルベといわれる高校入学資格のような全国統一試験があり、さらにあらゆる方面で年度末の行事が行われます。その他の子たちはもう半ばバカンス気分。大学生はすでにバカンス。
みんなが「vivement les vacanaces !」(バカンスが待ち遠しい!早く来い来いバカンス!)と叫んでます。

私も例にもれず恐ろしいスケジュールの5月と6月をくぐりぬけ、「あと少し!」と言い聞かせてるところです。

そんなわけですっかりブログが停滞していましたが、お伝えしたい話はたまる一方。
もともと日本にいる家族や友人に近況報告をするつもりで始めたこのブログですが、今やあちらこちらでこのブログをのぞいてくれてる方がいるんだということがわかりました。いろんなキーワードでインターネット検索してたら何気にここにたどりついた、って方の声をちらほらと聞きます。
そんな方の中からこんな突っ込みをいただきました。
「leonardoのブログで『続きはまた今度!』というのがよくあるけど、その続きを楽しみに待ってるのに続きがない!!(by Yさん)」と。(笑)
確かにそのパターンが多いような、というかそのパターンでブログが停滞することばかりのような気が。。。
でもたまってる話は時間ができたら必ず、話の続きも含めてお伝えしますからね!

さて、今から一カ月ほど前のことでしょうか、7月にモンペリエで開催されるラジオフランスのフェスティバルの事務長さんからメールが来ました。

「元気ですかleonardo?今年も4つのコンサートで字幕操作を担当してもらうことで了解ずみというのを確認しました。が、実はそのうちの二つのコンサートのために、leonardoご自身で字幕のファイルを制作してもらうことは可能でしょうか?楽譜上で字幕のキュー出しのわりふりをし、文字数、バランスなどを考慮しながらパワーポイントでファイルを作成してもらう作業です。」との依頼でした。

普段、私がオペラ座やフェスティバルのために字幕操作の仕事をするときは、すでに翻訳の作業とパワーポイントの制作の作業が完了済みで、私はただキュー出しの指示にしたがって音楽を実際に聞きながらパワーポイントのページを変えていくという仕事をしているだけです。今年のフェスティバルでもこの仕事をすることは、1月末の段階で決まっていました。
どのオペラ座でも字幕操作を担当するピアニストがしている作業はこれのこと。誰もその字幕のファイル作りには関わっていないはずです。

しかし今回、なぜか私にそれをやってくれないか?という話なわけです。
もちろん翻訳の作業は別の人がするか、すでに存在しているものを使うので、私の仕事は楽譜と訳詞が材料。
正直、やったことがない作業だし、フランス語の文章のバランスを字幕という観点からそれなりに修正したりもしなきゃいけないということで、私の母国語じゃないし、、、とためらいはみせながらも、「どうするべきなのか、何がもとめられているのか、というのはだいたいわかりますので、十分な時間を与えてもらえるのならやってみたいと思います。」と答えました。

この仕事をするにあたって、パワーポイントが扱えて、楽譜が読めて音楽がわかって、そして必要なときにはフランス語をコンパクトにまとめることができる、というのが条件なわけですが、はっきりいってそんな人、他にも見つけられるだろうというのが私の正直な感想です。なんせ依頼主はラジオフランスのフェスティバルですからね。彼らはフランス最大のラジオ局「Radio France」なのですから、そういった人材や人脈には困らないはず。 お金だってあるだろうし。
そこがなぜかモンペリエの外国人の私に話が来た。
私がコンサート当日に字幕の操作をするということが、彼らにとって何か都合がよかったのだろうか、、、?それともモンペリエにいるということが有利なことだったのだろうか、、、?

いずれにせよ、「私は未経験者で外国人ですから!」と改めて言っておいたので、「やっぱり別の人にしてもらうことになりました。」という連絡がきて当然と思っていました。

そしたら数日後、「お返事ありがとう!」と言ってきて、報酬や提出期日に関する具体的な仕事契約内容についてのやりとりに進みました。

そんな中で「ギャラは著作権として支払うということでいいですか?」と聞かれたのです。

7年前の私なら、仕事上で相手が言ってくることになんでもOKしてしまっていたでしょうが、フランスで仕事をしているなかで学んだことは数知れず。「著作権?ちょっとまてよ、、、」と思い、周辺の人たちにアドバイスを求めました。
するとやっぱりいろいろなからくりが潜んでいることがわかりました。報酬の額面の値段と手取りで残る値段と、さらには社会保障のパーセンテージなどなど。雇い主側の損得と雇われ側の損得とがいろいろとあるようです。
まあ、私の身分、私の労働環境がけっこう特殊なために、厳密なところまでは把握できてないんですけど、今回のところはとりあえず「著作権ではなくて給料として報酬をいただきたいです。」とお願いすることにしました。

それから提出期日についても、6月いっぱいまでといわれたのですが「今、コンサートとかいろんな仕事を抱えているし、初めての仕事ということで、もう少しだけ日数をもらえたら落ち着いてきちんと取り組めるので助かりますが、、、。1週間プラスしてもらえますか?」とお願いしました。

結果的に両方ともOK。
期日については「わかりました。ただもし何かあったら直ちに知らせてくださいね。フェスティバルの開始直前になってトラブルが判明ということだけはごめんなので。」と言われました。

これには「もちろんです!」と応えて気持ち良く交渉成立。

おもしろいのは、今回のやり取りの中で、私が「やったことありません。」というスタンスを出して、「私にはこの仕事は楽々できます!おまかせください!」という姿勢ではなかったことから、相手方にいろいろと気遣いをしてもらったこと。というか、単に心配させてしまってるということなんだろうけど。
例えば、私が念のためにと思って、打ち込む文字のポリスの種類や文字の大きさについて質問をしたら、「あなたの方が普段から現場にいるわけだから、あなたの方がいろいろとご存じでしょう。」と言ってきて、「誰かアドバイスを頼める人はいないかしら?モンペリエのオペラ座の人たちとはどうかしら?」と心配され、「昨年の字幕ファイルを送ったら参考になるかしら?」と気遣いをしてもらいました。
「ちょっと待って、、、、、あ、私の手元に○○と△△と□□と、、、、があるけれど、、、、、、。」と言うので、「いえいえ、一つだけでも送っていただけたら参考になって助かります!」と言いました。

しかも私にとったら、この仕事に関してアドバイスを求められる人というのは、モンペリエのオペラ座でいつもこの仕事をしているJ=M。
早速会いにいって、「実はね、フェスティバルのために私が字幕のファイルを作ることになったのだけど、2、3、質問してもいい?」とお願いしました。
そしたら彼は「パワーポイントの使い方は知ってるの?」というから、「まあ、だいたい。」と応える私に、「全然ってことか。」というんです。(笑)

みなさん、わかってもらえるでしょうか?ここに日本とフランスの違いがあるんです。自分の能力についてしゃべるとき、日本人なら確実なこととか自信があること以外は、見栄をはることは避けて正直に、さらにはちょっと控えめに謙遜も含めて話すと思うんです。
でもフランス人はアピールがすべてです。自分にはこれができるあれもできる、というのを見せるのです。まあ、それならいいことなんですけど、実は落とし穴があります。

例えばよくある例で、英会話力について比較してみます。
日本人に「あなたは英語をよくしゃべれますか?」と聞くと、「少しは。」とか「基本的なことは。」とかいう返事が多くて、そこに「発音下手ですけどね。」とか「旅行で困らない程度。」とか付け加えられます。
どんなにペラペラでネイティブ並みに話す人でも、「英語を上手にしゃべれるか?」という問いに、「はい。」とシンプルかつ100%肯定の返事をする日本人はあまり見かけないと思います。

ところが一方フランス人に同じ質問をすると、「まあ結構やりくりできるかな。」とか「まあ、結構できるかな。」という返事が結構多いのです。

でも実際は、「少しは」と答えた日本人のほうが、「まあ結構やりくりできてる。」と答えたフランス人よりもずっとか上手に英語を話す、ってことがほとんどなんです。(笑)

おもしろいですよね。

そんなことがあるので、私がパワーポイントを扱えるかという質問に関して、私はパワーポイントで実際にファイルを作成したことはないし、パワーポイントを使って発表とかしたこともないし、ただ一度だけパワーポイントの翻訳をしたことがあるから、どういうものかというのは知っているので、「だいたいはわかってる。」と答えたのは事実なのです。

でもそしたらJ=Mは「全然てことか。」なんていうから笑えちゃいました。

まあ、意地悪でもなんでもなくって、「おいで。」と言って彼のパソコンで実際の字幕ファイルを見せながら説明してくれたのです。

ただ彼も「leonardoがファイルを作るの?!」と驚いてましたけどね。

その数日後、例の事務長さんからまたメールが来て、パリに住むこの仕事のプロの連絡先をくれたのです。「先日あなたに送った過去の字幕ファイルはこの人が作ったものです。彼女は私たちのために何年も前から字幕ファイルを作成している人です。もし質問や困ったことがあったら彼女に電話してください。あなたから連絡が来るかもしれないということは彼女も了承ずみです。」とのこと。

私はJ=Mの他にも一人、あちこちのオペラ座のためにこの仕事をしているRを知っています。彼はイギリス人なんですけど、ハンガリー語のオペラやチェコ語のオペラ、ロシア語のオペラの字幕とかも担当しています。
で、私はすでに数人の人が作った字幕ファイルを見てきたのですが、それぞれの人によって多少違う点とかあるわけです。だから私は自分も一番慣れていて仕事がしやすいJ=Mのバージョンにのっとってファイルを作成することにしました。

でもそれにしても、事務長さんの気遣いは親切ですよね。
逆に私が未経験者ということで心配させちゃったのかな?

ま、そんなこんなで怒涛のスケジュールに新たな仕事が加わったのでした。
しかも初めての仕事。

今回私が作成するのは、ダンディ作曲(Vincent d'Indy)のオペラ「L'Etranger」、レーガー作曲(Max Reger)のアルトと合唱のための「レクイエム」、そしてバーンシュタイン作曲の(Leonard Bernstein)交響曲第三番「Kaddish」の字幕ファイルです。
「カディッシュ」はかろうじてCD録音が存在しますが、いずれもメジャーな曲ではありませんね。「L'Etranger」に至っては完全に無名の作品。演奏会で耳にすることもない作品ですから、誰も知りません。あるのは楽譜だけ。

仕事を引き受けたのは3週間前ですが、作業に取り掛かりだしたのは三日前!(笑)
だって忙しかったんだもん。。。
今も忙しいけどさすがに閉め切りが近づいてきますからね。
それにフランス語に関しては、提出する前に誰か友人に一応チェックを入れてもらわないと。。。

日本語での仕事ならやっぱり勝手が全然違うなーと感じながら、土壇場で作業に取り掛かっている私でした。

2010年5月10日月曜日

突然のオファー

突然の仕事の話には事欠かない私のモンペリエ生活。

今日の話題は4月12日のこと。
例のショスタコヴィッチのピアノトリオのコンサートから間もない月曜日。音楽学校でレッスンをしている最中に電話がなりました。
生徒かと思って電話に出ると、常勤スタッフではないけれどオペラjrの宣伝広報を担当しているEでした。

「leonardo ボンジュール! 元気かしら?」と話しだされて、こっちは生徒もいるのであんまりゆっくりしゃべれないな、と思っているところ、彼女はいきなり大きな話をしてきました。

「モリエールって賞を知ってる?毎年、舞台演劇の優秀な作品や俳優たちを選んで表彰するんだけど、いわば演劇のためのオスカー賞とかヴィクトワール・ドゥ・ラ・ミュジークみたいなものなのよ。」

「ああ、それなら知ってるよ。毎年テレビでセレモニーしてるやつだよね?」と返すと、「そうそう、それよ。」とEは続ける。

「実はね、表彰されるカテゴリーの中に、Jeune Public というのがあるのだけど、今年からその表彰式だけをフランスの地方ですることになって、私が働いているヴィルヌーヴ・レ・マグロンヌの劇場が選ばれたのよ。で、ディレクターと話していて、私たちのホールにはグランドピアノがあることだし、お客さんが席につく間とかにピアノ演奏があったらいいわねえ、ということになって、leonardoがいいんじゃないかと思ったのよ!モンペリエ周辺の重要人物とかたくさんくるし、格調のあるセレモニーにしたいのよ。もちろん出席者はみんな正装だしね。」とおっしゃる。

私はどういう状況のことを言ってるのかいまいちわからなかったけれど、一応、「ふんふん、、、」と聞いていました。

ヴィルヌーヴ・レ・マグロンヌというのはモンペリエの隣町で海沿いにあるVilleneuve les Maguelonne のこと。中世の古いカテドラルが有名です。
このEがそこにある劇場で働いているということは知っていました。でもなんせ小さな町のこと。劇場と言われても、一体どんな劇場があるのか想像もついていませんでした。そこへその劇場がモリエールの賞の表彰式の会場に選ばれたとかいうから、まるでちんぷんかんぷんだった私。

でもさらに驚くことにEは「でね、このセレモニーは来週の月曜日のことなんだけど、どうかしらleonardo?」というではないですか。

「ええ!?来週の月曜日のことを言ってるの?」と私。

モリエールの表彰式は毎年テレビで生中継されて、フランスの演劇界で歴史あるとても大切な賞だということは十分に認識していました。映画でいうカンヌ映画祭やセザール賞みたいなもんです。

でもそのjeune public だけ地方でうんぬんというのがどうもよくわかりませんでした。普通jeune publicというと、小中学生を始めとする子供たちが学校のクラスと見学に来たりするときのことや、教育目的の作品のときのことをいいます。

私が「??」と思っている間にも、むこうは話を続けます。

「ところでleonardo 、演奏のギャラはいくらとるのかしら?」と。

これまた唐突ですね。こうなってくると、私は目の前に生徒がいるし、時間も押してるし、「ごめんなさいE、30分後位に電話かけなおさせてもらっていい?私、実は今ちょっと手がふさがってて、、、、。」と言って一旦は会話を終了させてもらいました。

実は、このEという女性と私は親しいわけでもなく、あんまりいい印象ももってなかったし、あまりに突然の話だし、月曜日の夜は音楽学校でレッスンをしているうえに、今年のスケジュールは無茶苦茶に乱れてしまって、月曜日の生徒さんにきちんと決められた数のレッスンを年度内にできるのかどうかで四苦八苦しているところ。そこへさらにレッスンなしで補講とかってことになったらさらに大変なことになる。
どうもいい予感がしない。。。

そこで、先ほどの電話で私はとっさの反応として、「でも、19日は私仕事でふさがってるわ、、、。」と言ったのです。

でも電話を切ってからレッスンをしつつ、頭の中でちょっと考えた私。

なんだかよくわからない仕事の話だけど、私が一人でお客さんが席に着く間に演奏するってことは、日本で私がよくしていたレストランとか結婚式場でのムード音楽の演奏ってことでいいのかな?モンペリエでは伴奏ピアニストとしての仕事ばかりしてるわけだし、たまにこういう話がきたときに乗っておいたほうがいいのかな?とかグルグルと。

で、約束の時間に電話をこっちからさせてもらいました。

「あのね、もう一度詳しい話を聞かせてくれる?ムード音楽を演奏するってことでいいの?」

そこでEは19日のセレモニーではJeune public にノミネートされている作品を紹介して受賞者を発表するだけの短いものだと。でもモンペリエの政治家やモリエールの主催者のえらいさんとかがいてスピーチをするから全部で30分くらいかしら、とか説明してくれました。さらになんとかという俳優さんが特別ゲストでくるし、、、とか。そしてその日の模様はテレビ用に撮影されて、一週間後のモリエールの受賞セレモニーがテレビで生中継されるときに5分間録画放送されるんだとか。

「わかった。じゃあ、落ち着いた感じのクラシック音楽とジャズと映画音楽とか、私が自分で選んだ曲でいいのね?もし何か特別な指定とかあるのなら、また話は別だし、、、、。」と言いながら、19日の仕事を移動させれるか見てみる。と返事をしました。Eの方も私が申し出たギャラで劇場のディレクターがOKか翌日に電話で伝えると言われて電話を切りました。

それにしても相変わらず驚かされるわけなんですけど、なんでそんな大事なセレモニーの運営、進行について今頃話あってるんだ?だいぶ間からセレモニー会場に選ばれたことくらいわかってたんでしょ?と思ってしまう。

やっぱり恐るべしフランス人。

さて、翌日の火曜日。約束通りにEから電話がきました。
ギャラの面では問題ないとのこと。私のほうもなんとか都合はつけると返事しました。
ただ、あいかわらずはっきりとしないのが演奏内容と演奏時間。

まずは「で、ピアノはどこにあるの?ステージの下とか?」と私が尋ねると、「いいえ、ステージの上よ。」うちはちいさな劇場で、オーケストラピットみたいなものはないんだし。」と言うではないですか。「え?ステージの上で私弾くの?それだとムード音楽を弾く、っていうのとなんか状況が違うんだけど、、、。せめてステージの隅っことかよねえ?」と私が聞く。Eは「ステージの真ん中かすみか、わからないわ。まだ何も決まってないもの。」と言う。え?まだ何も決まってない?

さらに私が改めて、「私が勝手に好きなように弾いていいのね?」と念を押すと、「それについては今週末にしか返事できないわ。」と言ってきました。

え?!今週末って、セレモニーは6日後にせまってるのに、セレモニーの3日前にしかわからないってどういうこと?3日前になってあの曲を弾けだの、言われたって困ります。
私がしつこく「3日前に突然言われても準備の状況とか全然違うわけだし、、、、」と言うもんだから、Eも「でも何か特別なものを指定するなんてことはないと思うわよ。」というだけ。

なんだかよくわからないけど、「はあ、、、、、」とあっけにとられて、一応私がそのセレモニーで何かを弾くらしい、、、、というあいまいなことだけが決定されたのでした。

さて、続いてその週末、金曜日の夕方のこと。
仕事も終わって友達とカフェにいた私に電話がかかってきました。Eです。

「あのね、leonardoにしてほしいことを言うわよ。ピアノはステージの上にあるの。でもお客さんたちがホール内に入る間、幕が下りてるからお客さんからleonardoの姿は見えないの。その間、だいたい15分から20分くらい、バックミュージックを弾いてほしいのね。それから重要人物がスピーチをするのだけど、客席から壇上に上がる間の時間を何か音楽でつないで欲しいのよね。」という。

ここで彼女が言った言葉は厳密に言うと、「いくつか音を鳴らして欲しい。」というものでした。

スピーチする人が壇上にあがる間の音楽と言えば、アカデミー賞とかいろんなセレモニーで見られるようにオーケストラがちょっとしたパッセージを奏でるのをよく聞きますよね。どういう音楽を求められているのかは私だってすぐにわかります。でもそれを「いくつか音を」とか言われて、なんかすごく適当にしかも簡単そうに言ってくるなあ、とちょっとムカっとしました。なんせもともとあまりいい印象をもってない人なもんですから、、、、。

彼女が言うには4人スピーチが予定されいるので、それぞれが壇上に上がる間と客席に戻る間に音楽が必要なんだそうです。

それから彼女は続けます。「スピーチが終わってから幕があがって子供たちがステージ上にあるブランコに向かうのだけど、そのときに何か一曲弾いてほしいの。leonardoが弾いているときに幕があがって、leonardoの姿が現れるってわけ。」と。

「はあ、、、、」と聞く私。

「それからはまあ普通の受賞セレモニーなのよ。leonardoには多分一旦ステージから去ってもらうことになると思うんだけど、受賞が発表されて全部終わってから、もう一度最後に一曲弾いてほしいの。leonardoの演奏で式を終えるというわけ。」という。

ていうか、それだと私は完全にセレモニーの進行の一部になってるじゃないですか。
大事な存在じゃないですか。
それでは「軽くバックでムード音楽を演奏する」と思ってお願いしたギャラともなんかずれてくるような、、、、。

あっけにとられて「ていうか、だいぶ話が違うんだけど、、、」という私にEは、「そうなのよ、変わったのよ。」とあっさり言う。

私が「2曲を弾けと言われても、、、、」と言うと、Eは「leonardoが知ってる曲でいいのよ。もちろん。ほらフォーレとか。」と、オペラjrで昨年のコンサートがフォーレだったことや、私がフォーレを好きなの知っていて言ってくる。さらには「なんならゴールデンヴァニティーでもいいのよ。」とか言ってきました。
え?Golden Vanity って子供が死ぬストーリの曲なんですけど。。。。
冗談にしても悪い冗談だし、適当に言ってるのなら適当にもほどがあると思って、私もブチッ。。。

しかも「明日、ブランコに乗る子供たちと練習が予定されてるんだけど、leonardoも来てくれないかしら?」と言われました。

このところぶっ通しで仕事をして、日曜日なんて5週間に一回とかしかないペースで、その貴重な日曜の休日が18日だったので、「。。。。。」と止まってしまった私。

セレモニーで大事な役目を担ううえに前日にも来いと、、、。

そこでむこうからすんなりと「ギャラはそれなりまた変化させるから。」とか言ってくれてたらいいのに、なんにも言ってくれなかったんです。
もちろんこっちもお金お金という意識はないけれど、ちょっとしたことですっきりと居心地よくなったり悪くなったりするというもの。なんせ、いい印象をもっていなかった彼女ですからね。(ってしつこいですが。)
「はあ、、、、、」ととにかくあっけにとられたまま、セレモニーで私が何かを弾くということは決めてしまってあったのだし、事前にどんなホールでどんな場所で弾くのかぐらいは知っておいたほうが私自身のためだと思って、結局は日曜日に出向くことをOKしました。
というか、金曜日の夜も、一日中仕事をしたあとの土曜日の夜にあわてて曲選びをしてピアノを弾いて準備したのはいうまでもありません。

そうして4月18日の日曜日。

気持ちよく晴れた日曜日。せっかくの貴重な休日だったわけですが、午前中の約束をいいわたされたのでマグロンヌに向かう私。

しかし!!こういう時に限って車がおかしい!!

前の古い車の時代には毎日のように車の故障にはらはらさせられていた私ですが、車を変えてからは日本にいたときのようにすっかり安心しきっていました。
車は動くものと信じ切っていた私は車のトラブルにめっきり弱い。
さいわい駐車場に洗車をしているムッシューがいたので、助けをもとめに行ってなんとか車も動くことができました。

マグロンヌはカテドラルと刑務所がある街という認識しかしてなかった私。
街の中に入ってみれば、モンペリエ周辺のそのほかの村、街と同じで、住宅地という感じでした。

その劇場というのはいってみれば公民館のような建物の中にあるホールのことでした。200席の小さなホール。とは言っても、ちゃんとした作りで、客席は立派なシートでひな壇式になってるし舞台には照明とかひと通りそろってるしちゃんと音声や照明のミキサー室もありました。

ああ、こんなところにこんなホールがあるのか、と驚いた私。

Eに出迎えられてホール内に入ると、4、5人の子供たちが一人の女性とリハーサルみたいなことをしていました。
そう、その女性がこの劇場のディレクターでした。

「日曜日にわざわざきてもらってありがとうございます!」とかなり熱烈に迎えていただきました。

子供たちにも紹介されて、「わ~、この人がピアニストなのね~!」と言わんばかりのキラキラした目で迎えられてちょっと照れちゃったりして。

まずは、とコーヒーを頂いたのですが、そこでディレクターさんが「実はさっきこの子がショパンのなんとかをポロポロと弾いてたんだけど、私、それが気にって!どうかしら明日に?」とか言ってきた。

「え?」。。。。。

セレモニーの前日に結局は曲を指定してくるんですか?とあっけにとられる私。

一応気をとりなおして、とりあえずはぶっつけでリハーサルということになりました。
つまり、カーテンが閉じられて、「はい!客の入場!」とか叫ばれて私は弾き始めるわけです。私は勝手にリストアップしてきた曲を弾きました。

するとまた驚くことに、「それ!気に入ったわ!なんという曲?」とか「はい!次の曲に行って!」とか言われる始末。え?あなた今選んでるんですか?という感じ。あいかわらずわけがわからない私はとりあえず考えてきた曲を弾き続ける。

私は30曲くらいをムード音楽として選んできたわけです。とくに授賞式なわけだから暗い曲や悲しい曲、重い曲は避けて、明るく穏やかな曲をメインに選んできました。

私が弾き始めて4曲めくらいで、「それ!それよ!」とディレクターさんは叫び、「子供たちがブランコに行く時はそれにしましょう!」と早々と一曲が買い取られました。

先ほど言われたショパンのなんとかは結局ワルツだったんですが、短調のワルツで、私は適当にならすぐに弾けるけど、人前で、しかもステージの上で翌日に弾くというのはどうもしっくりこなかったので、「これはちょっと暗くないですか?」と難癖をつけて却下させてしまったりしました。(笑)

私もたくさん曲を用意してきていたわけですが、結局ディレクターさんは、子供たちがブランコに行く時の曲とセレモニーの終わりの曲を選び、お客さんが客席につく間は「あなたの好きなようにしてくれていいわ。」と言いました。

「それにしても、あなたにはまたぜひ来てもらわないと!素晴らしいわ!ゆっくり聴きたいという思わされるもの!」と言ってもらい、よくわからないままここにいるけど、気にってもらえたのならよかった、と一安心。

それからスピーチのときの練習はというと、カーテンの向こうでディレクターさんが「どこどこのディレクターの○○氏!」と叫び、私が自作のちょこっと音楽を弾く。「はい!スピーチ終了!」と叫ばれて、今度は壇上から降りる間のためにちょこっと音楽を、、、。

もうなんだか笑えてくる状況でした。

そんな大事なセレモニーを翌日に控えて、よくもまあこんな土壇場で、、、、。

そんなこんなでなんかわけわわからないままに、リハーサルも終了。

「それじゃあ明日!よろしくね!」と言われて去る私。

マグロンヌのとなりはパラバスのビーチです。

天気もいいことだし、海岸沿いに車を走らせて、ちょっと海を眺めてぼ~っとしてみました。
相変わらずの地中海です。


青い空と青い海。波の音とヨット。

なんだかこのシーズン、すごい仕事をしてきたけれど、こんな近くにこんなきれいな海があるんだな~、って改めて気付かされました。

この日は人影も少なく、ピクニックしてるカップル、そして一人で服脱いで日光浴している青年、、、。

平和な風景ですね。

私はこの後、家に帰ってから最終的に選ばれた曲とお客さんが会場に入る間の音楽としてメドレーの順番を考えたりしてピアノに向かいました。

当日の様子はまた今度お伝えします。

2010年3月10日水曜日

逃してしまったチェレスタデビュー!

今から3週間前のこと。

オペラjrで一日中、4月頭に公演予定のメノッティのオペラ「アマルと夜の訪問者たち」(Amahl and the nignt visitors)に向けての集中練習に参加していた私は、18時に仕事が終わってから携帯電話の電源を入れました。
するとそこにはモンペリエ・オーケストラのマネージャーさんからの留守録メッセージが残っていました。
留守録の時刻は14時。

彼は「3月頭のコンサートでチェレスタ奏者が必要なんですが、あなた興味ありますか?招待ということで我々がお迎えするカタルーニャ・オーケストラの演奏なんですが、チェレスタのパッセージがあるんです。興味あったらどうぞ至急お電話ください。詳しい説明をしますから。」と言って、携帯電話の番号まで残してくれてました。

みなさんはチェレスタって何か知ってますか?
見た目は小さなアップライトピアノもしくはオルガンみたいな形をしている鍵盤楽器なんですが、オルゴールのような音がする楽器です。たまにオーケストラの作品で使用される楽器。
私はもちろん!今までに弾いたことがありません。(笑)
これは初めてチェレスタを弾く機会=コンサートで弾く機会=オーケストラに混ざって弾く機会!

これはまた大きな話がきたもんです。

それにしても3月頭のカタルーニャ・オーケストラのコンサートって何か聞き覚えが、、、、。

そうです。イギリス人指揮者ベンジャミンくんが指揮するコンサートではないですか。

去年のラジオフランスのフェスティバルに続いて、彼にとって二回目のモンペリエでのコンサートに関わる仕事の話がくるというのも何かのご縁。

このメッセージを聞いたとき、私は仕事を終えて仲間とカフェで一杯飲んでいました。
すかさず自分のスケジュールを確認すると、3月頭は連日オペラjrとの仕事が入ってる。
でも、チェレスタを演奏する機会!オーケストラに入って演奏する機会!しかもあのベンジャミンのコンサート。はっきり言ってやるべき理由がそろってる。
そこで、目の前にいたヴァレリーにお伺いをたてました。

「あのね、3月頭の金曜日、土曜日あたり、ちょっと不参加さえてもらってもいい?」

するとヴァレリーは、「え、leonardo どこ行くの?どっか行くの?」と尋ねられて事情を説明。

私のオペラjrとの契約内容はちょっと特殊なもの。私は一応彼らのベースとなるスケジュールには沿って参加することにはなってるんですが、同時に後から足されたり加わったりする日時がいっぱいあって、そのたびに私はオペラjrのためにスケジュールを調整する。そのため、私はちょっとお互いさまのつもりで臨時でやってみたい仕事の話が入ると、ヴァレリーたちの了解を得てからその仕事を引き受けるという方法でやってきていました。

「オーケストラでチェレスタを弾く。」という話にヴァレリーはとっても理解を示してくれて、「誰もがねらってるような仕事なんだから、やるべきよ!」とまで言ってくれました。
やっぱりそういう仕事に声をかけてもらえるということだけでもラッキーで貴重なこと。
私自身は、毎回オペラjrのスケジュールとの兼ね合いに頭を悩まし、あまりよそで仕事たくさんしてもひんしゅくを買うだろうし、、、と、臨時で仕事の話が来るたびに、ヴァレリーにお伺いするか、もう今回はやめとくか、、、と迷うものでした。
でも、この日のヴァレリーのはっきりした後押しにすっきりして、早速オーケストラのマネージャーさんの携帯に電話をしました。

この時18時半。

私が「leonardo です。さっきのメッセージ聴いて電話させてもらいました。チェレスタの話で、、、。」と言いだすと、彼は「あ~、ごめんなさい!実はね、我々すごく急いでいたものだから、次の人に電話してOKとのことだったから、もうその人に決まってしまいました。」と言う。

「え==!!ほんとですか?!もう後遅しなんですね?!ああ残念!」とついつい本音で叫んでしまいました。

すると彼は「でもね、実は正直言ってあなたに電話するか迷ったんですよ。だってあなたかなり忙しくしてるでしょう。特にオペラjrと。どんなリズムで仕事されてるんですか?」と聞かれてしまいました。「特にオペラjrは金曜日とかでしょう?我々のコンサートはたいてい金曜の夜ですからね。」と。

確かに。

最近、コンサートの譜めくりの仕事とか何度か頼まれたけど、全部「仕事で空いてません。」と返事をしてしまってました。

彼もすでによく把握してらっしゃる。。。

しかし!今回の話はスケジュール調整をする覚悟でチェレスタは弾きたかった!

そこで私は彼に説明をしました。「自分に興味のあるお話をいただいたときには、音楽学校の仕事は自分でなんとか調整しますし、オペラjrにはお伺いをたてて了承を得たらするようにしてるんです。私はフルタイムの契約というわけではないですし、たいてい彼らも理解を示してくれるし、、、。もちろんコンサートとかスペクタクルの直前とかだったら、私もお伺いすらたてませんけど。」と。

そしたら彼は「あ~、そうやって時々は身柄を自由にさせてもらえるのだったらいいですね!これからは迷わずにあなたに電話します。」と言ってくれたのです。

オペラ座のスタッフとはもう気心が知れた仲になってますが、オーケストラの事務とはまだつきあいも浅く、仕事上のやりとりが始まったばかりの関係。そんななか、今回彼にこうやって自分の状況を説明できたのはいい機会でした。

ただただ逃した話が今回はとっても残念!!
思わず指揮者ベンジャミンくんにも「ちょっと聞いてよ~~~!」とメールしてしまいました。
彼も「うそ~!なんて残念な話だ!」とびっくり。

14時のメッセージに18時半にかけなおしたのが遅すぎたんです!
ということは、今後、携帯電話を切らずにピアノの袖において仕事をするか?!

ああ。悔やまれるできごとでした。

まあ、確かに彼らがチェレスタ奏者を見つけるのに急いでいたというのももっとも。コンサートまで2週間ちょっとだったわけですから。

今回のことでこういう仕事はやりたがってる人は山ほどいるという現実が改めて見え、自分の中での優先順位のつけかたにちょっと方向が見えてきました。
やっぱり人生、いつもどこでも選択をしなくてはいけないもんですよね。
あれもこれもとかかえこんでいては結局いつかはラチがあかなくなってくる。

今後の仕事の仕方、仕事の選択、スケジュールの調整方法に悩む中、自分のスタンスははっきりとさせていかないとな~と学んだのでした。

2010年3月8日月曜日

あっという間の雪景色

急激な気温の変化、気候の変化にはもう慣れっこのモンペリエですが、またも異常気象を感じさせる天気となりました。

なんと昨日から今日にかけて、南フランス一帯が大雪注意報が出るほどの雪にみまわれたのです。南仏ですよ。もう3月ですよ。異常ですよね。
しかも昨日の気候の変化は急激でした。

お休みの日曜日だった昨日、朝方帰宅をしたもんだからゆっくり寝て起きて、午後になってから友達に誘われて海辺散歩にでかけてきました。
時々雲に隠れるとは言ってもモンペリエらしい青空に恵まれて、ビーチを歩きながらのおしゃべり散歩。ただ、ここ数日でまた気温が下がったうえに風が結構きつかったので、お散歩は小一時間ほどで終了。モンペリエに戻ってお茶しておしゃべりをしてました。
で、「アルプスの方は昨夜雪が降ったんだって」、とかの話題も出てたところ、ちょうどラジオで「ピレネー山脈の地方で大雪の恐れ、、、」と言ったから、「わ~、雪か~、信じられないね~。」と驚きつつ、他人事のように聞いていました。

で、自分の家に帰ったのが18時。
ちょっと風が冷たいけれど、普通の空の色をしていました。

まったりと過ごすこと数時間。
20時のニュースで、南フランスの西側一帯に大雪の恐れがあると呼びかけていました。「へ~。」と思いながらまた数時間。

そこでふと、「そういえば日曜日の夜とはいえど、今日はやたらと外が静かだな。」ということに気がつきました。
夜だけどめずらしく雨戸をあけて外の様子を見る私。

そしてびっくり。

なんとなんと完全な雪景色にと変わっていたのです。



改めてニュースをつけてみたら、モンペリエの周辺、複数の県で大雪注意報が出てるではないですか。
うん、納得。
車の屋根の雪なんかみたら13、4センチは軽く積ってます。これは私がモンペリエで生活するようになってからの最高レベルの積雪です。地面の積り方を見ても、いつものモンペリエの雪とは全然違う密度の濃い色をしてますもんね。
いや~、驚きました。
だって、つい数時間前にビーチに行って青空と太陽の下、お散歩してきたんだから。
                                                                                      
3月7日のこの雪。
どうやら春はもうちょっと先みたいです。

2010年2月25日木曜日

只今工事中

1月後半から続いていた27日間仕事ノンストップの耐久マラソンを無事に乗り越えることができました。

バカンス天国、週35時間労働、サービス残業なんてありえないがモットーの国でこんな話を周囲の人にすると、「ウソ!ホント?」と驚かれたり、「よくやるな~。」と驚嘆されたり、しまいには「leronardo それって違法よ、、、、」と真顔で突っ込まれたり(笑)
まあ、違法というのは労働者を守る意味での法律から雇い主がそのようなスケジュールで働かせてはいけない、ってことですが、私の場合、あっちこっちでの仕事を自分でスケジュール管理してるからまあ自発的に過労しているというのも否定できない。

振り返ってみると、一番きつかったのはオペラjrのコンサートとVictoires de la musiqueの準備とオペラ「オテロ」が重なったうえに、生徒の発表会もあったためにピアノのレッスンに走り回った週。時間を気にして車で移動してばかりというのは、せかせかして精神的によくありません。この点、次回から改善すべきです。
でもなんやかんや言っても一応全部の仕事をこなして持ちこたえれたので、私の身体のトラブルのことを考えると、6年前に調子を大幅に悪くしてしまった時期に比べたら、問題と付き合うのが自分なりにかなりうまくなったと言えると思います。それがうれしい!

さて、世間は先週から二週間の冬休みバカンスに入ってるのですが、私は今週数日だけちょっぴりバカンス。ゆっくり寝るぞ~、ダラダラするぞ~と思いたいところなのですが、なんと私の住むアパートは外壁修復塗り替えの工事真っ最中。

6棟全部で200軒を超える所帯数をかかえるこのアパート。1月からいくつかの部分に分けての工事計画が貼りだされていました。私の住む棟は2番目で、工事予定は2月9日からとなっていたんですが、このところの悪天候続きのせいに工事は大幅に遅れ、(悪天候だけが原因ではないと私は思うけどね)今週22日からやっと私の住む棟にとりかかりました。

予定どおり進んで先週だったら私も一週間まるまる一日中仕事で留守してたからよかったのに、今週からだなんてついてない。私のせっかくのお休みの日も容赦なく、朝8時からすさまじい音で工事が始まります。まるで歯医者さんで歯を削られる音か、もしくはアスファルトの道路をドリルで掘り起こすような音が、自分の部屋の壁にむかって外から襲ってくるんです。ガガガガ=ダダダ=ゴーって。
それでも意地で寝続けてやろうとしている自分も笑えてくるんですけどね。

しかも今はベランダや窓の目の前に作業用の足場が組まれてしまって、作業の人たちがウロウロして落ち着かないだけでなく、窓ガラスが傷むのを防ぐために雨戸は閉めっぱなしにされ、さらにビニールシートとテープでしっかり覆われてしまい、悲しい戸閉め生活をよぎなくされています。幸い洗面所には雨戸のない窓があるので、そこのすりガラスからかろうじて外の光がちょっととれる程度。でも天気が悪いと雨が降ってるのか曇ってるだけなのか区別がつきません。
この冬のモンペリエは天候に恵まれず、青い空で有名なモンペリエらしからぬ空模様ばかりでした。それでも今週に入って「いよいよ春が近づいてくるかな?」と思わせる感じになってきたのに、そこで戸閉め生活ではついていません。。。
でもこの工事の計画でいくと、最後の割り当ての棟は6月ですって。それこそモンペリエ最高の初夏の季節に戸閉めを余儀なくされる人達ったら、考えただけでも気の毒です。それに比べたらまだいいかと思うしかありませんね。
さて、このアパートはもともとボケたピンク色と肌色のような色をしていました。
                                                                         
私はこの外観を最初からわりと気に入ってたんですが、自治会でいろいろ議論でもめた結果、今回の塗装工事となったようです。自治会というのは、私のような賃貸住居者は部屋の持主である大家さんが参加することも多く、私にはあまり情報が入ってこないんですね。でも全体的には賃貸住居者よりも購入して住んでいる人のほうが多いみたいだし、自治会の活動はかなり活発なアパートであります。騒音の苦情とかにかなり積極的に取り組んでいるのが私のお隣の例のムッシューでもあるんですけど、彼が時々自治会情報を私に知らせてくれます。今回の塗装でどんな色にするかというのも昨年のうちに話合われて、それぞれの投票で決まったとのこと。
私が日本からの里帰りから戻った時、塗装のパターン候補が掲示されていました。
                                                                                                  
 
                                                                            
もともとの色を残す案やベージュ基調で無難な色など。でも、結局決まったのはこちらの赤色をつかった配色。                                                             

このアパートの名前にはrouge 赤という言葉が入っているのが決め手となったそうです。
この写真は塗り替えが終わったお隣の棟の様子ですが、こうなるとやっぱりガラッと雰囲気が変わりますね。私的には前のほうが愛着があったんですけど。。。                                                         
ま、私もここの住人になって早3年半。
いつしかこの新しい景色にも慣れていくんでしょうね。

2010年2月8日月曜日

Les Victoires de la musique classique 2010 前日の巻

2月7日の日曜日、モンペリエの総合ホール施設CORUMからの全国中継生放送で行われるLes Victoires de la musique classique 2010がいよいよ翌日となって、会場ではリハーサルが行われました。

CORUMには金曜日の午後からテレビやラジオの関係者が現地入りしています。トラックもいっぱい。



2月8日の月曜日20時半からテレビFrance3 とラジオ France Inter で放送される3時間に及ぶ番組で、つまり3時間に及ぶコンサート&セレモニーなわけですが、リハーサルは今日と明日の日中のみ。分刻み、秒刻みで舞台進行をこなさないといけないわけですから、時間との戦いです。

この日、オペラjrは舞台上での練習時間50分を与えてもらいましたが、これがとっても大事。指揮者とは金曜日の夜に顔合わせをしてありますが、このリハーサルで初めて指揮者とオーケストラがそろっての演奏となり、初めて実際に会場、舞台を確認できて、音響はもちろん、舞台上のスペース、位置関係のチェックができました。しかもこれが最初で最後。

舞台裏は中継のために映像と音声のスタッフが、それぞれモニターとともに並んでて、ホールの客席側もテレビ番組なだけにいつもとはちょっと違う雰囲気。客席に向けてたくさんの大型テレビが並んでいました。



私たちのリハーサル前は、招待指揮者としてエルヴェ・ニケ氏がモンペリエのオーケストラを指揮して、去年モンペリエ・オペラ座で「アーサー王」で演出を行った人気お笑いカップル、「シャーリー&ディノ」で有名なCorinneとGillesの二人と共に「指揮者に挑戦!」的なお笑いの場面の打ち合わせをしていました。お笑いとバロック音楽、クラシック音楽ファンと興味がない人なんかをひきあわすことができて、ニケさんとジルとコリンヌという意外な組み合わせは今や成功例。彼らの「アーサー王」はDVD発売もされて好評だとか。今回のVictoires de la musique にとっても、この3人はモンペリエとテレビ業界をつなぐ、うまい接点となったわけです。

続いてモンペリエ・オーケストラのヴァイオリン奏者であり、私の恩師ニコ氏の息子であるルトヴィク氏が、なにやらオリジナルで原始的な楽器をもって登場。ハープと長いパイプホルンを伴奏にサン=サーンスの「白鳥」を演奏。どこから音が響いているのか不思議な楽器から出る不思議な音色に会場に居合わせた人は魅了されました。
このルトヴィク氏はクラシック音楽の演奏はもちろん、タンゴ音楽でも熱い演奏をしてくれるし、今回はこんな秘密特技まで披露してくれて、もしかしたら一躍時の人になってしまうかも!

さて、ニケ氏がからんだシーンの練習が終わり、舞台袖ですれちがって挨拶。
「元気?次は君が指揮する番かい?」なんて軽口を言われて、「違いますよ~。客席で見るだけですってば。」と返す。

こうしていよいよオペラjrの順番となりました。
会場内にはおえらいさん方がそろっています。

はっきりいって、テレビ局側、セレモニーのプロダクション側の人たちは、オペラjrというのがどんな団体なのかよくわかっていませんでした。単に「子供や若者が歌う」というのを予想していたようですが、オペラjrが舞台に登場して振付や動作とともにフォーレの「パヴァーヌ」歌いだすと、会場の注目が一気に集まりました。こういうとき、空気が変わるのがよくわかります。




インタビューをするためにニケ氏とジルとコリンヌを追ってホールの外に出ていたジャーナリストたちも戻ってくるとともに舞台に注目。
私は客席に座って遠くから見ていたのですが、「人の気を引く」というのがどういうことかというのがよくわかる情景でした。
オーケストラをバックに、彼らの声のよく響くこと。そしてやっぱり心地よいのは、自然な声だということ。オペラ歌手やロック歌手のあるいみ「作られた声」ではなくって、子供の自然でシンプルな声がす~っとホール内に響き渡るは、普段一緒に練習している私にとっても快感でした。

テレビ局のえらいさん、さらにはVictoires de la musiqueのえらいさん達がヴァレリーのもとに称賛の声をあげにきてくれました。「子供や若者がこんなに自然体で演技をしながら歌うのは初めて見た!」と。みんなの注目を集めた子供たちやヴァレリーは、リハーサル後に早速取材を受けていました。振付を担当したジスレンヌともども、私たちもとっても満足。

早速、この日の夜のFrance 3のニュース地方版では、このリハーサルの模様が伝えられ、やっぱりテレビなだけにジルとコリンヌさん、そしてオペラjrにも焦点があてられていました。

次のサイトのLanguedon-RoussillonのDimanche 07 février を選んでもらったらニュースが見れます。だいたい17分たったあたりからがVictoires de la musique の話題です。

http://jt.france3.fr/regions/popup.php?id=c34b_1920&video_number=0

オーケストラとともに30分練習して、そのあとは舞台のすみっこにあったピアノを使って私のピアノ伴奏で練習。これは予定してなかったので、おえらいさん方を前に突然弾くことになってちょっとびっくりしましたが、「このピアノ使ってもいいんでしょうか~?」なんてスタッフに尋ねながらフタが完全に閉じたままのグランドピアノに向かいました。最終チェックをして私たちの持ち時間は終了。後はもう、明日の本番で今日のように本領を発揮してくれることを願うのみです。

みんなから称賛の声をいただいたオペラjrでしたが、今日、唯一問題となったのはやっぱり衣装。(笑)

実はスポンサーに名乗り出た地元モンペリエの子供服メーカーがいて、新作コレクションの中からオペラjrのスタッフが選んだんです。でもそのメーカー名がどど~んと背中にのってるTシャツとかもあったりして。そもそも選びに行ったスタッフは私たちがどういう音楽でどういう振付で歌うのか、知らないでいってますから、私たち現場のスタッフから見たらみっともない、センスがよくない、、、というのがちょっと。。。でも最終的にはオペラjrのディレクターがそうすると決断したためにどうしようもないこと。

しかし、彼らの衣装を見たとたん、テレビ局関係者、番組関係者から「これはなんだ?」という声があがり、さらにはモンペリエの音楽界の王様クリング氏が「話にならん!」と一蹴り。

いくつか柄や色違いでそろえてあるのですが、その全体はまあそのままにするとしても、このメーカー名が大きくのってるTシャツは、明日の本番までの間になんとか代わりを見つけなくてはいけなくなりました。
私はこの衣装をまったく気に入ってなかったので、王様の一言であっさりと事が片付くところは見ててスカッとしました。(笑)なんといってもフォーレの音楽とは全くマッチしてないし、振付ともまるでかみあってない。。。このままテレビでの電波に乗ったとしても、「すばらしいけどあの衣装はなんだ?」という声が聞こえることになることはわかりきっていましたからね。


さて、この番組の司会を務めるのは、本人もミュージシャンでありクラシック音楽ラジオ番組のパーソナリティーを長年務めるフレデリック・ロデオン氏(Frédéric Lodéon)とテレビでおなじみの女性キャスターマリー・ドリュケールさん(Marie Drucker)です。

実はこのマリーさん、いつも私がきれいだなあと思って見てる女性の一人で、知的な女性として選ぶならとっても私好みなんですが、このネタだけでブログにかこうかと思っていたほど。その人を生で見れるとなると、きっと実物はさらにきれいなんだろうな~なんてミーハー気分丸出しで、今日会場で姿を見るのを期待してたんですが、今日はまだ会場入りしていないようで残念。

Les Victoires de la musique の公式サイトがあるので、どうぞご覧ください。登場するアーティストの写真が載っています。マリーさんの姿も見れますよ。

http://www.lesvictoires.com/classique/home.htm


今回のセレモニー&コンサートは一般にチケット発売はされずに招待客のみで行われます。CORUMの大ホールは2010席あるのですが、音楽業界のおえらいさん方、アーティスト関係者、そして出演者の関係者、さらにモンペリエの各界のおえらいさん方が中心となって埋まるということだろうと思います。幸い、オペラjrのメンバーの父兄もそれぞれ2席ずつもらっていました。もちろん私も「2枚は欲しい!」と希望を出していたのに、数日前にどうやら私の分はもらえないらしい、、、ということでがっかりしていました。が、今日、初めて関係者が現地にそろったということもあって、最終的には土壇場で私もちゃっかり3枚招待券をいただくことができました。

舞台正面のいい席に招待されている人たちには、立派な招待カードが送られ、そこにはしっかりと「正装で」と明記されています。フランス語ではtenue de soirée となりますが、そう言われるとハリウッドのアカデミー授賞式やカンヌ映画祭みたいなとまではいかなくてもドレスとタキシード着用なのか?という感じがしますよね。私が招待券をあげようと思っていた友人カップルも「tenue de soiréeなんてもってないよ~。」と言っていて、「普段よりちゃんとした格好だったらいいかな~?」と気にしていたのですが、雰囲気的には正真正銘の正装でないといけない感じでした。まあ幸い、私が今回ゲットできた席はサイドのバルコン席。普通に言ったらあまりいい席ではないわけですが、今回に限ってはそんな席のほうが正装うんぬんで厳しくみられることもなく、気楽に行けるだろうからよしとしましょう。

さて、本番はどうなるんでしょうか?!

また追ってお伝えします。 

2010年1月16日土曜日

ギターがやってきた!!!

今年の抱負をブログ上で宣言した三日後のこと。思ってもいなかったうれしいサプライズがありました。
ギターを買ってボサノヴァに再度挑戦したい!という私ですが、「今年こそは!」というのを友人、周囲の人たちに話し始めた矢先のことでした。

私は毎週火曜日に、友人リザのお母さんでアメリカはカリフォルニア出身のヴィッキーと「英語と音楽の交換レッスン」をしています。内容はというと、私が彼女の家に行って、彼女の旦那さんも交えてケーキとコーヒーをお供にフランス語と英語を混ぜたおしゃべりをし、次に英語だけでの会話を二人でして、最後に私が彼女にピアノのレッスンをするか、彼女のチェロのために伴奏レッスンをするという、なんともリラックスしたもの。

今のところの私は、大学生時代まではそれなりに知識をもっていた英語の記憶がさっぱりと消え去り、ここモンペリエの手元に英語の勉強道具もこれといってなく、彼女の英語を聞き取るヒアリング力と自分が言いたいことを伝えるスピーキング力の差が天と地の差ほどで、これは自分でじっくりと勉強しなおす時間が必要だな~と痛感しているところ。せっかくアメリカ人とおしゃべりする時間があっても、個人的に何かしないと、昔もってた知識さえもどってきません。
それでも、一応ヴィッキーにも下手な英語で「私は日本にギターを残してきてるんだけど、今年こそはここモンペリエでギターを買ってきちんと練習したい!」と宣言したのです。

すると彼女はすぐさま、「私のギター貸してあげようか?」と予想外の申し出をしてくれたのです。

実は彼女と私、楽器の好みがまるで一緒で、ギターとピアノとチェロが好きなのです。

私は一応ピアノで仕事をしていますが、音色とレパートリーが大好きなチェロは、その演奏のポジションが私の身体の故障に支障をきたすために挑戦すらできません。一方、ギターは一度購入したものの、ボサノヴァやジャズギターへの憧れが先行をして道とだえていました。

かたやヴィッキーは、まだカリフォルニアで生活していた若いころギターを好んで弾いていて、その後滞在したコロンビアでも現地の音楽などを演奏していたそうで、ギターとは長いつきあいです。ギターよりもあとに習ったのがピアノ。手が小さい彼女はハンディがありながらも、とりあえずショパンやドビュッシーなどのレパートリーは弾ける腕前をもっています。そして仕事を退職した2年前にかねてからの憧れだったチェロを購入してレッスンも受け、今日に至ります。

彼女は「今夢中なのはチェロだから、leonardoがよかったら私のを貸してあげるわよ。」と言ってくれたのです。

「え===ほんと~!?」と大喜びする私。

すぐさまとなりの部屋からちょっぴりホコリをかぶったギターケースを持ってきてくれました。
見てみると日本製!



ケースには飛行機に積み込んだ時のタグがついたまま。

ヴィッキーとともにカリフォルニア、コロンビアを旅してフランスまでやってきたギター。そして彼女の娘さんに数年貸していたそうで、その娘さんは仕事赴任先のアフリカやオランダにこのギターを連れていったのだとか。
そんな世界を旅するギターが、ここモンペリエで日本人のもとにやってきました。

数万円は覚悟でギターを購入することを決めていた私。
それが無料でのレンタルに。
期待もしていなかったサプライズ。

「え~、でもこれってあなたの宝物よね?宝物の一つよね?」と確認する私に、「そうね、宝物の一つだわ。」と答えるヴィッキー。「でもleonardo の役に立つなら。leonardoがさらに素敵な音楽をするのなら。」といって貸してくれるというのです。
「私、ほんとに大事にするからね!」と言うと、「その点なら全く心配してないわ。leonardoなら。」とニッコリしてくれました。

大事に両手でかかえて持って帰ったギターは今、私の部屋に。



このギター、一番低いE弦が切れているので、近々さっそく弦を買いに行ってチューニング整えて、譜面立てを購入して、いざギターに再挑戦です!
2010年、幸先いいぞ!

2009年11月5日木曜日

Les Chevaliers du Zodiaque

先月、オランジュのテレビサービスの問題を解決したら、たくさんのチャンネルが見れるようになったという話をしましたが、本来は80チャンネルくらいのはずが、なぜか120チャンネル以上が楽しめたんです。

そんな中で、とある番組に気がつきました。

それは「Les Chevaliers du Zodiaque」。
日本のマンガアニメのフランス語タイトルです。Chevalier は「騎士」、Zodiaqueは「黄道12宮」のこと。どのマンガのことをいってるのかわかりますか?

実は、、、


じゃじゃ~ん。「聖闘士星矢」のことなんです。

実は私、かつてこのマンガのファンでした。なんせマンガ全巻もっていましたから。

このブログを見てくれている方では、このマンガをご存じの方と全く知らない方とにわかれると思いますが、このマンガのシリーズには「サンクチュアリ編」、「北欧ヒルダ編」、「ポセイドン編」、そして「ハデス編」とがあって、私が知る限り、日本のテレビ地上波ではポセイドン編までが放映されたと思います。

今回、私がフランスでオランジュのテレビサービスを利用できるようになって見つけたチャンネルの一つに、マンガ専門チャンネルがありました。そこでは一日中いろんなマンガを放送しているわけですが、すごいのが、「聖闘士星矢」のエピソードを3つ、一日に3回放送してたということ。しかも日曜日には私がマンガでしか見たことなかった「ハデス編」を放送してたんです。

私が番組に気がついたときに放送していたのが「サンクチュアリ編」でもクライマックスの一つ、いて座宮でのエピソード。


タイトル文字もそのまんま日本語が残されてるところがよい。

テーマソングもエンディングソングも日本語のままで、私はそれはそれは懐かしい時間を楽しんだのでした。
なんせ、私が東京に住んでいたころ、小学校中学年のころに見ていた番組なんですから!

しかしファンとしては許せないことが一つありました。

それはフランス語吹き替えの声優さんの声の悪さ!

声が悪いと言ってはなんだけど、まるでキャラと合っていない声なのです。かっこよく必死で戦っているところで、なんとも間の抜けた変な声でそれぞれの必殺技のタイトルを叫んだりしていて、とてもかっこ悪い、、、。


そしてちょっとショックだったのが、16歳禁ならぬ10歳禁マーク。日本のアニメは暴力シーンだらけで教育上よくないという声は、ここフランスではよく聞かれますが、それでもこのマンガ専門チャンネルで10歳禁マークが出ていたのはこの「聖闘士星矢」だけ。
あのドラゴンボールだって禁止マークなしなのに。。。

まあ、そんな感じで2、3、日本での放映とは違う点がありますが、そんなことは目をつぶるとして、とにかく、私は「聖闘士星矢」との再会に大喜び。私が「Les Chevaliers du Zodiaque」の大ファンだと知ってあきれるフランス人の友人を横目に、私は毎日熱心にこの番組をみるためにテレビの前に座ったのでした。

ストーリーはニセ教皇の正体が明かされるところまでいって、「サンクチュアリ編」は終了。そのまま「ヒルダ編」へと続きました。

毎日3本ずつ放映ですから、トントン拍子で進んでいきます。

忙しい中、眠い中、「この番組は逃せない!」と必死にテレビを見始めて10日がたったところで、不運が私を襲いました。

それは例の嵐の日。

実は嵐の中、仕事から家に帰宅した私は22時半からの「聖闘士星矢」を見始めていたのです。

外は激しいカミナリ。

でもこの前話したようにカミナリ対策のコンセントを使っているので安心しきってテレビを見ていたんです。そしたら、落雷の衝撃とともにライブボックスが「バチッ!」と言ったかと思うとテレビの画像が止まってしまいました。

う~ん。。。

嫌な予感がしましたが、この日は疲れていたし、落雷のせいだと結構あきらめよく寝ることにしました。が、実はすぐにインターネットとテレビが復旧しないとわかったときの私の落胆ぶりをわかってもらえるでしょうか。

「Chevaliers du Zodiaque」が見れなくなった、、、、と言って落ち込む私をみて友人はあきれ返っていました。

忙しい時期だったからこそ、夜22時半から寝る前に「聖闘士星矢」を見るのがちょっとした楽しみになっていたんです。それなのに。残念。

インターネットの復旧が遅れ、そうしているうちに「ヒルダ編」は終わり、「ポセイドン編」にストーリーは進んでいるだろうな~と思いながら、一日の早い復旧を祈っていたわけです。

そして12日後。
やっとのことでインターネットが復旧し、喜び勇んで私はテレビをつけました。

すると。

この「聖闘士星矢」をやっていたマンガ専門チャンネルが見れない。。。

「このチャンネルには加入登録されていません。」という表示がでるではないですか。

「あれ?2週間前には見れていたのに?」と首をかしげる私。

そこで落ち着いて映るチャンネルを数えてみると、今度はだいたい80チャンネルくらい。本来、見れるといわれている数のチャンネル数になっていました。
落雷の前の私は120以上はかるく超えるチャンネル数が見れていましたからね。
そう考えてみるとようやくわかりました。

テレビが見れるようになった当初、多分数多くのチャンネルがお楽しみご視聴サービスということで、無料で見れていたようなんです。この視聴期間が普通どれくらいの間なのかは知りませんが、落雷のせいでサービス終了のきっかけが与えられたみたいで悔しい~。

12日間、インターネットもテレビもなく、不便な生活をしたうえに、「聖闘士星矢」が見れなくなってしまいました。

ああ、つかの間の10日間の楽しみでした。。。