2016年1月8日金曜日

あれから一年

皆様、あけましておめでとうございます。
皆さんの健康を祈り、ポジティブで、かつ、丸っこくて暖かいエネルギーが世界に広がることを祈るばかりのこのごろです。

2015年はフランスにとって歴史に残る痛ましい年となっていまいました。世論調査によると、81%のフランス国民が、「2015年はフランスにとって悪い年だった。」と答えています。
国民一人ひとり個人にとっても悪い年だったというわけではないようですが(51%が自分にとっては良い年だったと回答。)、2015年に起きたできごとの数々によって、国民は自分たちの生活がこれまでのようにはいかないのだという意識を強く持ったのは確かなようです。

今日からちょうど一年前の1月7日、パリの風刺新聞社シャルリー・エブドがテロリスト兄弟に襲われ、11人が命を奪われました。新聞社の中心メンバーたちが編集会議を行っていた最中で、フランス人なら誰もがよく知る著名な風刺漫画家たちが数名、そろって命をおとしたことでもフランス全土に大きなショックを与えました。けれどこの事件はこの日だけでは終わりませんでした。数日にわたって犯人は逃走し、さらにもう一人別の犯人が彼らと連携連動しており、ユダヤ系食材スーパーで人質をとって立てこもるという事件が同時に起きてしまったのです。

結果、シャルリー・エブド関係者、スーパーの客、そして警察官の17人もの人々が命を奪われてしまったのです。

この日をきっかけに、フランス国民の感情が深いところで傷つき、揺さぶられました。

まず、多くの人がいつかは起きてしまうのではないかと、どこかで感じていたことが実際に起き、どうして防げなかったのかという思い。これはシャルリー・エブドが数年前から数々の脅しの対象となっていたことに関係しますが、日本人からみてこのシャルリー・エブドがなんだったのかと理解するには、ちょっとやそっとの説明では不十分だと思います。事件後、日本でも数人のフランス専門家がこのテーマに関して本や論評を発表しましたが、ぜひ、ひとつの文章の前だけで立ち止まらずに複数の文章を読んで、フランスという国の成り立ちや、表現の自由の権利にまつわる歴史、さらには風刺画にまつわる歴史に関する文章なども読んで、全体像からつかんでいっていただけたらと思います。

重ねて、DAESH/イスラム国の脅威、特にフランスの若者が現地へ渡って活動に参加しているという実態が、ここ数年報じられ、専門家たちが警鐘をならしていたにもかかわらず、フランス国民の意識が1月7日の事件の惨状を目の当たりにするまで、十分なレベルまで達していなかったのではないかという思い。
なぜかというと、イスラム過激派のテロリストの脅威は常に存在しましたが、フランスで生まれ育ったフランス人が、テロリストの影響を受け、しかも現地へ行って訓練を受けたうえで帰国し、フランス国内でフランス人を相手にテロ行動を起こすという図式を、こうもやすやすと証明されてしまっただけでなく、彼らの間に連携体制があり、大きなネットワークと個々に行動を起こすという二重の構造がはっきりと見えてきたからです。実際にはもうすでに過去にも例があり、専門家たちは警鐘をならしていたわけですが、フランスの一般市民が実際問題として理解したという意味では、この事件の衝撃は大きかったのです。

さいごに、この事件で問われたのがフランスという国の存在意義の核をなすと言っても過言ではない「表現の自由」。この表現の自由の権利が侵されたのです。
シャルリー・エブドがそれまでに発表してきた数々の風刺画が、テロ実行犯にとって「神からの罰を受けるべき」対象であり、関係者を次々と射殺したのはそれを実行したに過ぎないのです。
以前にも紹介した、フランスの民主主義の思想を端的に説明するフレーズが、ヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。」ですが、社会をあらゆる角度から批判精神の目で観察して風刺画に表すという活動を行ってきた新聞社が、その風刺画のせいで命を奪われたのです。
この権利が、先ほど述べたシャルリー・エブドという新聞社の存在に象徴されるという形になり、事件発生からまもなくして「Je suis Charlie」(私はシャルリー・エブド)というスローガンが世界中に広まったのでした。犠牲者への追悼の意を表し、また犠牲者への連携の意を表し、表現の自由を守る大切さを訴え、意見が違うから、考えが違うからといって人の命を奪うテロ行為を断固許さないという意思表明のため、フランス中で市民が街に出てデモ行進をしました。




パリだけではありません、フランス各地で見られた光景です。




このとき、理解しておかなければいけなかったのは、意思表明を行ったフランス国民のみんながみんな、シャルリー・エブドの大ファンだったというわけでは決してないということ。販売部数は減り、存続がいつも危ぶまれていたギリギリ経営の極小新聞社でしたし、発表される風刺画に対して、皆がいつでも手をたたいて賞賛していたわけではありません。たまには「よくぞ言った!」的な反応があったとしても、たいていは「よくもそこまで、、、」と内心思ったり、「それはさすがにちょっとやりすぎなんでは?」と思うこともしばしばあったわけです。
同時に確かなのは、シャルリー・エブドは何もイスラム教だけをターゲットにして笑いのネタにしていたのではなかったということ。彼らの精神は社会に存在する、ありとあらゆる矛盾や見え見えの偽善、エゴといった、人間の姿を笑ってやろうというもので、キリスト教はもちろん、フランスの政治化、有名人、ある現象や社会問題、まさにありとあらゆるものを風刺画の対象にしてきました。

ですから、人々は殺された風刺画家たちが手にしていたのは鉛筆であり、ペンであったとして、絵であれ、文章であれ、表現の自由を象徴していたものが侵されたことに抗議する意味で、鉛筆やペンをプラカードの代わりのシンボルマークとして行進しました。




フランスで大多数の人々が連帯姿勢を表明した中、「シャルリー・エブドはやり過ぎた。こうなって当然だ。」、「シャルリー・エブドは人の信仰心を傷つけた。自業自得だ。」、とささやいた人々も確かにいました。これにもとづく討論や意見の表明などが、哲学者なども巻き込んで広がりました。
けれど、フランスでは「表現の自由」というものがフランス国民の核となるものであるという認識がゆらがない一方で、日本から聞こえてきた声は、大多数が「シャルリー・エブドはやり過ぎた。」というものでした。「とても下品で野蛮な風刺画ばかり書いていた。」という声や、「宗教を信じる人々の心を尊重しなくてはいけない。」や、「相手が侮辱されたと感じるような行為はしてはいけない。」と言った、教訓的なコメントが目立ちました。もちろん正当な、一理ある意見です。けれど、この出来事の全体像を前にして、どこかずれがあるように私には感じられました。同じテーマを扱っていないような、同じレベルのテーマを扱っていないような、そんな風に感じたのです。やはりメンタリティーが違う、文化が違う、宗教観が違う、価値観も違う、社会が違う両国なのですね。「表現の自由を守る。」という概念に対する認識が違うように思いました。
また、フランス全土で国民が街に繰り出した様子を映像でみて、やはりどこか自分たちとは違う人々だと感じた人が、日本には多かったのではないでしょうか。

私は両国で報道されるニュースの中身や、有識者、専門家のコメント、そして一般市民の反応などを見比べているうちに、これまで時代が変わって両国が近づいてきていたところへ、やっぱり根本的なところで日本社会とフランス社会は違うな、と思わされるきっかけにこの事件はなったな、と感じました。そして両国民がお互いに異文化交流を深めるには、相互理解を深めるには、まだまだ乗り越えるべきハードルがいくつもあるなと痛感していったのです。

そんなさなかに起きたのが11月のテロ事件でした。
金曜日の夜ということで賑わうパリの夕べが、複数のグループに分かれたテロ集団によって、恐怖の夜へと一転しました。
この事件で明らかになったのは、このテロリストたちの思想を相手に、「シャルリー・エブドはやり過ぎた。」のかどうかという論争は、まったく関係ないということでした。週末の夜を楽しむ、ごくごく普通のフランスの若者たちがなんの理由もなく殺されたのです。まさに大量殺人でした。しかも周到に計画されて準備されて、犯行は行われたのです。

1月から11月の間に、いくつものテロ行為がぎりぎりの段階で食い止められたりしていて、私たちはずっと何かの延長線上にいることは意識していました。しかも、標的はなにもパリだけではないのです。パリとブリュッセルを結ぶ新幹線の中でテロ行動に出ようとした犯人を、たまたま居合わせたアメリカ兵が犯人を押さえつけて大惨事を免れたというニュースは日本でも報じられましたが、残念ながらその事件だけではないのです。オルレアンという、北部の地方都市でもテロが計画されていたことが発覚しましたし、モンペリエでだって、驚くようなエピソードが報道されています。コメディ広場で不審物が見つかって、広場一帯は一時立ち入り禁止になったとか、妊婦さんに見えるようにニセモノのおなかを準備して、テロを企んでいたというカップルが逮捕されたと報じられたのです。

フランス各地でさまざまなテロ関係のニュースが流れると、一番重大なのは、国民が「またか!」という思うのを通り越して、「これだけでは終わらない。」と自覚している段階まできたということです。

11月の事件発生後、大統領は「戦争状態だ。」と宣告しましたが、この表現はともかく、フランス人の頭の中に「自分たちの暮らしがこれまでとは違うものになってしまった。」という認識が刻まれまたのは明らかです。
大統領とその周辺は、さまざまな確かな情報を手にしていて、専門家たちもTVなどでかなり細かいところまで、テロに関するフランスを取り囲む現状を解説してくれます。

皆が危機感を持つのは大事ですが、残念なのは不十分な理解からさまざまな間違った認識が広がることです。簡単な大まかな例で言えば、この一連の事件のせいで、イスラム教徒全体に対して間違った認識を抱いてしまったり、移民系市民に対して間違った認識を抱いたりする人々も多く、社会の状況をさらに悪化させるような現象がおきかねません。

置き換えれば日本における福島の問題も似た状況だと思うのですが、国民一人ひとりが現状を理解しようとする努力と、正しい全うな判断を下そうとする努力をしないと、おかしな、極端な、そして排他的な論調が社会にすぐに広まってしまいます。

大勢の人が何かに恐怖を抱くというのは、そんな現象を起こしてしまうんだと思います。
その証拠に、あんなにフランス全土で声高らかに叫ばれた「表現の自由」を守る運動や、「私はシャルリーだ。」というスローガンも、12ヶ月が経った今、なんだか様子が変わってしまいました。
普段は強気なフランス人も、怖いもの知らずなフランス人も、やはり見えない脅威を相手に、恐怖心を抱いているのです。当然のことです。さらには、上に書いたようなさまざまな情報が飛び交うなかで、変な誤解を恐れたり、自分のもっている情報が正しいのかと躊躇したり、自分の意見を主張することで変に目立ったしまったり、身の上に危険が生じるのを心配しているうちに、「いかなるときでも表現の自由は守られるべきだ!」と断言しきれる人が減ってしまったのです。

今では、冷静な鋭い目で現実を訴え、フランスの憲法や表現の自由を尊重することを訴える人たち、あるいは、何がテロの元凶なのかを私たちに説明してくれる専門家たちは、皆、命を狙われている人々となり、警察による護衛がついています。彼らこそ、自由を訴える行動を続けることによって、生活の自由を奪われてしまっているのです。何をするにもどこにいくにも護衛がつき、一人で自由に行動できなくなってしまったのです。しかもその命の危険のリスクは現実のものですから、どうすることもできません。

「こんなおかしなことはない!」と嘆くほか、今の現実、現状はこうなのです。

あの日から一年。
今日もパリでナイフを手に警察署に押し入ろうとした人物が射殺されるという事件がおきました。当初、爆弾装置を身にまとっていたと報じられましたが、すぐに、それがニセモノだったとと断定されました。この人物所有の身分証明証と指紋が一致しないなど、いろいろな情報も流れてきました。そんな中で、射殺した警察官を非難するような言動に出る人もいます。

こうした出来事の節々にフランス国民の今の複雑な心理状態が垣間見れます。

2015年1月7日。フランスは新しい時代に入ってしまいました。

もう日本社会が抱える問題とフランス社会が抱える問題は、次々と違ったものとなっていくでしょう。テロの問題、中東との関係、そして押し寄せる難民の波。国内では失業者数がどんどん増え、失業率は10パーセントを超えています。少なく見積もっても、フランス全国民の10人に一人は仕事がないのです。深刻な状態です。地方によってはさらにひどく、我々モンペリエは15パーセントを上回る、非常に高い失業率をマークし続ける都市の例にあてはまります。こうなると、超資本主義の国の日本人からみたら、「仕事がない」という状況を理解しにくくなっていると思うのです。
現フランス政府はこれらのどの問題をとっても批判の的にさらされていますが、正直、私は「こんな問題すべてをカバーして解決できるそんなスーパーマンはいるのだろうか?」と思ってしまいます。

日本は日本でいろいろな問題を抱えているでしょう。少子化の問題、介護の問題、安全保障の問題、東北の問題、福島の問題、、、。そして人間が何を行おうと、自然災害はこの先も起き続くでしょう。

新しい年の初めにあたって、少しでも人々が穏やかな気持ちで、暖かい気持ちで互いに助け合い、問題解決に取り組んでいくような、そんな空気が日本をフランスをも包んでいってくれることを心から願っています。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ブログを読ませて頂きました。フランスについて、大変勉強になります。2016年1月にモンペリエへ来ましたが、職場のフランス人は大変親切な方ばかりです。フランス人の人柄も含め、モンペリエの良さが伝わると良いですね。この時期のバーゲンは大変助かります。

leonardo さんのコメント...

ごえんのわへようこそ!そしてモンペリエへようこそ!これからモンペリエがもつさまざまな顔を発見していってください。