2015年4月25日土曜日

小さい頃には知らなかったこと

すごく単純な話にもなってしまいますが、ここ一、二年で様々な種類の問題に直面してしまったこと、そしてここモンペリエで本当にいろいろな人と出会い接してきたことで、はっきりとわかったことがいくつかあります。それは日本社会、フランス社会の違いには関係なく、どこにでもあること。そして自分が小さい頃にはそんなものだとは知らなかったこと。

その一つは世の中、もともと平等ではないということ。そして正義には満ちていないということ。

ものは考えようかもしれませんが、「どうせみんな一緒なんじゃないの?」、「結局はみんなそうだよ。」、といった「所詮はみんな同じ」的発言や、「生まれたときはみんな平等にチャンスを与えられている。」、「人生よくするも悪くするも本人次第。」といった「徹底的な自己責任論」には、月日が経つにつれて賛同できなくなってきました。
今でははっきりと「私はそうは思わない。」と表明して生活しています。

もちろん、一つの社会の中で平等が尊重されるべきですし、世界中の人にも平等な権利がもたらされるべきです。また、自分の境遇を嘆いてばかりいないで、ポジティブ精神で動けば物事は動くもの、といった考え方には基本的には賛成だったのですが、世の中には実際はどうしようもない不平等が存在すると認識するようになったのです。

とてつもなく恵まれない環境に生まれついた人に対して、恵まれない環境を経験も知りもしない者が、「ポジティブ精神でがんばって!絶対に苦労は報われる!」と言ったところで、それは無責任な偽善者だと思うのです。

悲観的な思考だと思われてしまいたくはないですが、世の中は不平等だという認識をもつのともたないのとでは、人々に対する考えや見方がずいぶんと変るものだと思うのです。

なんせ、この世の中にはまだまだたくさんの深刻な問題がいっぱいあるわけで、それを解決するには、まずこの不平等が存在しているという現実を受け止めなくてはいけないと、このごろ強く再認識しています。「そんなことはない。」と言い出すと、それは「臭いものにはフタ。」的な対応につながっていくと思うのです。
そしてそのためには様々な境遇にいる人々に出会って接して、事実を実感する必要があるでしょう。自分と似た環境の人としか接していないと、そういった現実が見えてこないものだと思います。

たとえば世界の中において、日本社会はかなり均質的な社会です。たとえその中には様々な問題がもちろんあるとは言っても。
そして日本社会の中で、人は自然と自分と似たような生活環境を持っている人と接するようになるものだと思います。例えば会社ではたいていが似たような学歴、能力、分野の人の集まりといえると思います。日本のような学歴社会だと、高校、大学と進んでいく中で、自然と自分と似た学力レベルの人の集まりに身をおくようになって、そのまま就職していくというパターンに陥ってしまうと思います。住むところだって、特にニュータウンと呼ばれていたような地域では、そこに住む人々の家族構成、家庭環境がかなり限られたパターンになるものだと思います。

日常生活の中ではなかなか難しいことだとは思いますが、家族親戚、同じ学校、同じ年齢、同じ世代、同じ会社、同じ業界、同じ町内の人々の輪の中だけにとどまらず、趣味やいろいろな活動を通して、違った環境にいる人たちと出会い接する機会がもてたらいいだろうなと思います。そうするとそれぞれの境遇、立場、経験が全然違うこともよくわかるし、世の中の見方も違うこともわかるし、似たような点がいくつかあったとしても、結果が同じようになるとも限らないこととか、いろんな「違い」が見えてくると思います。

それぞれの人がもつ問題、経験した苦労話にもいろんな話があるものです。病気を抱えている人、身内にに酒癖や暴力の問題がある人、自らの浪費やギャンブルで経済難に陥った人もいれば、第三者にだまされて経済難に陥った人もいます。幼い子供を事故でなくした人、病気や障害をもった身内のケアを日夜しなくてはいけない人、上司からのパワハラ、セクハラが原因で追い詰められて職も健康も失った人、勤め先が倒産して職を失った人など、震災で家族を全員失った人、震災で家族は無事だけれど家と職を失った人、、、。

そしてもちろん自分が暮らす国のことだけでなく、世界中の国々で起きていることに目を向けて、現状を把握する努力をすれば、私たちが暮らす時代、世の中はまだまだ不平等で、正義が通されているとは限らない状況が見えてくるものだと思います。食べるものもない国や地域で生まれた人、恐怖政治におびえる人、戦争が続く地で生きる人、、、。

以前にも書きましたが、モンペリエで生活している中で、世界が近いと感じています。世界中の国から人が来て生活していますし、紛争の国から来た人、政治亡命をしてきた人だっています。さすがに日本とはまるで状況が違う国もありますから、その人々の境遇を理解しろと一口に言っても難しいのかもしれませんが、やはり相手の立場に自分を追いてみる想像力があるかどうかだと思うのです。

そもそも、こういった問題、不幸、苦労の多くに理由や原因はないものです。日本に生まれつくこととシリアに生まれつくことの違いを誰がいつ決めたかなんて、「運命」という言葉を使わない限りわからないことだと思います。
苦労など一切知らずに一生を終える人もたくさんいるのですから、やっぱり世の中不公平、不平等なんだと思います。それが現実なんだと思います。

そしてこの現実を前に、人間には二つのタイプがあるというところが、小さい頃には知らなかったことの二つ目です。
他人や他者の苦労に対して、どのような考えを抱くか、どのような態度で接するかというところで、この点がはっきりと現れます。

一つ目のパターンは、こうした苦労はいつなんどき自分にも訪れるかわからないと知っている人。この意識さえあれば、たいてい人は相手の置かれた状況を理解しようと努め、相手の痛みをともに感じ、少しでも力になろうとするものです。

もう一方のパターンは、相手の苦労を大変だろうにと心は痛めるとしても、その苦労が自分には訪れなかったことを感謝し、今後もこの苦労がわが身には訪れないことを祈ったりするタイプ。この意識がある人は、たとえ口で素敵なことを言っていても、実際には相手のために何をしたらいいのか、何ができるのかさえ検討がつかない人がほとんどです。典型的な偽善者です。

要は「お互い様、助け合いの精神」タイプか「我が身大事」タイプかの違いです。

どんなに表向きできれいごとを言っても、この二タイプの区別は簡単にできます。そこがこの世の厳しい現実なのです。頭では誰だって「困っている人には親切に。」とわかっているものですが、実際にどのように認識しているかという点で、人間と言うのは劇的にこの二タイプに分かれるのです。
そして幸いにも、この世の中にはお互い様、助け合いの精神の人々が確実にいるのです。このことを知るだけでも、やっぱりこの世の中、捨てたもんじゃないなと思います。
そして幸か不幸か、多少の苦労を経験してこそ、この違いがよく見えるようになるものです。何の苦労もしてきていない人は、やっぱり「実感」という面でなかなか人の痛みを心底共有するのは難しいものでしょうし、自分が逆境にいてこそ、相手のその態度が見えるものです。
そしてもちろん、自分は苦労は経験していなくたって、自分にいつその苦労が降りかかるかも知れないという意識をしている人は、この二タイプの違いがよく見えるものです。

私はここ数年でいろいろな問題に直面したことで、これまで以上に世の中というものが、人というものが見えたと実感しています。
そして社会のしくみ、医療システムや社会保障のこと、労働者の権利といった事情にも以前より通じることができたし、人権、正義といったことにもより具体的に意見が持てるようになったし、何より単純に、医療、司法といった分野に関わる人々の中にも、上記の二通りの人間がいることがよくわかりました。

よい教師がいれば悪い教師がいるもので、よい医者がいれば悪い医者もいて、よい弁護士がいれば悪い弁護士もいます。
こんなこと、小さい頃には知りませんでした。教師になった大人は立派な人、医者や弁護士になった大人は優秀な人なんて単純に思っていたところがあると思います。
もちろん良い悪いの話には、能力の良し悪しを言ってる場合が多いですが、最終的に優秀な人物として認められるには、人間的な部分が何よりも大事になるものだと思います。知識、技術的な能力もあり、さらに相手の境遇に敏感であること。そこが問われてるんじゃないでしょうか。

結局のところ、どんな職業であれ、どんな身分の人であれ、どんな立場の人であれ、年齢も性別も国籍も関係なく、すべては、「自分本位」、「損得勘定」、「保身主義」であるか、それとも共に社会を担う仲間として、相手とお互いの喜びと苦労を分かち合って助け合おうとする精神を持っているかどうか。

すべての経験は人生の勉強であり心の糧。
私はここ数年で、これまたいろいろな経験を重ねています。
こうしてまたこれからも一歩一歩と進んでいこうと思っています。


0 件のコメント: