2022年9月28日水曜日

モンペリエ四面楚歌?

さて、前回の「ここはどこでしょう?in l'Ecusson de Montpellier その5」の続きです。

城壁のお話で、400周年を迎えたということをお伝えしました。

400年前にモンペリエで何が起きたのでしょうか?

400年前というと1600年代。日本では江戸時代が始まるという時期ですが、フランスでは絶対王政への道を進む時期でした。フランスの歴史には特に詳しくなくても、日本人にもピントくるキーワードがいろいろ出てくる時代でもあります。その筆頭にくるのが三銃士!ダルタニアンのお話を知っている人は多いでしょう。話の中では敵キャラとして扱われているのがリシリュー卿。このリシリューが仕えたのが、王様ルイ13世。三銃士の話の中では、アンヌ王妃に優しく接する王様として登場しますね。

彼の息子がルイ14世で太陽王と呼ばれる、絶対的権力を手にした王様でした。彼が作らせたベルサイユ宮殿が有名です。その次がルイ15世で、あの「ベルばら」でも有名な、フランス革命のマリーアントワネットとルイ16世へと続きます。

400年前の今、モンペリエの街は当時の王様ルイ13世の軍隊に包囲されたのです。

どうして街が王様の軍に包囲されてしまったのかと言えば、これはフランスの宗教戦争の話に関係します。

宗教戦争、ユグノー戦争、ナントの勅令などの言葉を聞いたことがある人も多いと思いますが、フランスではカトリック教徒とプロテスタント教徒が激しく対立した時代がありました。1500年代後半のことです。フランス史の中でも特にどろどろとした時代で、陰謀、暗殺、虐殺などがつらなる暗黒の時代。この戦争は、1598年、アンリ4世によって、カトリック側がプロテスタント側に信仰の自由を認めるなど、一定の自治権も保証したナントの勅令で一旦は終結しました。

が、ルイ13世の時代になって、カトリック側が自分たちの力を強める動きを見せた結果、プロテスタント側が反発することになって、各地でプロテスタントによる反乱がおきたのです。

そのリーダーになっていたのが ブルターニュ地方の大貴族の出のローハン公爵。反乱の動きは南フランスでとくに活発化しました。 

王室側から見れば、言うことを聞かないプロテスタントは反乱軍。1621年にルイ13世が反乱軍制圧の旅に出たのです。

パリを出て西部から南下した討伐軍は、各地でプロテスタントを打ち負かし、トゥールーズのすぐ横にあるモント-バンでも勝利を収めました。

これを受けて、反乱軍のリーダーであるローハン公爵は、次に攻められるのはモンペリエだと見越して、モンペリエの街の防衛強化に乗り出しました。モンペリエの街を城塞化する計画です。兵術エンジニアのPierre d Conty d’Argencour (1587-1655)を呼び、それまでにあった中世からの単純な城壁を強化するよう命じました。

当時のモンペリエは、13世紀ごろから街が城壁で囲まれていて、10つの門が街への出入り口でした。急ピッチで進められた工事によって、周囲3キロに渡って高さ6メートルの城壁ができ、深い堀も作られました。

建設プランの図がこちらです。




この時、Pierre d Conty d’Argencourが実現させたのは、今ではヴォーバンの要塞都市として世界で知られる星形の城塞都市計画。1600年代初めごろから理論的には開発が進められていた星形の城塞ですが、それを実際に作って活用したということでは、モンペリエの城塞化が世界で最初の例の一つになるようです。

ローハン公爵の見立て通り、1622831日に、ルイ13世による反乱討伐軍はモンペリエの街を包囲しました。

その様子を描いた当時の絵がこちら。




モンペリエの人達の側からすれば、街を守る思いはもちろん、宗教戦争ですから信仰心をかけての戦い。モンペリエの人々は男も女も総動員で抵抗しました。が、数でも力でもはるかに上回る討伐軍を相手に降参することとなります。

1012日からモンペリエの代表者を交えた停戦会議が始まり、18日にはローハン公爵自らが出向き、1020日にはルイ13世の到着を迎えました。

当時、街の支配権を象徴するのが、街でメインとなる門の鍵だったのですが、モンペリエの代表者がこの鍵をルイ13世に差し出し、モンペリエの街は王様の完全支配下にはいることとなりました。

モンペリエの人々が抵抗したこの戦いのことを、Le Siège de Montpellierといいますが、「モンペリエ包囲」のことです。40日の戦いでした、

この戦いで街は壊滅的ダメージを受け、城塞の壁はすぐさま解体命令をうけたのですが、続いて新しい城壁の建設計画が始まりました。戦争で破壊されたカトリックの教会、プロテスタントの教会も含め、新たな街づくりが始まりました。

王権による支配のコントロールが強化され、王の代理人のような統治者も派遣され、街の財政も管理され、モンペリエの街の仕組みが変わっていきます。

モンペリエの街から見れば悪いことのようにも見えますが、王権の統治者がモンペリエに座したことからも、モンペリエの街は周辺地域の中でどんどん力を強めていきます。

この流れが、現在フランスの大都市の一つというポジションを作るきっかけになったことを思えば、歴史上の転換点だったと言えるでしょう。

この夏、20228月末から1020日まで、このモンペリエ包囲から400周年というお話でした。

1 件のコメント:

まるこ さんのコメント...

ユグノー戦争は有名ですがモンペリエでもあったのですね。よくわかりました。